平安時代から将棋は公家衆など高貴な人々に親しまれており、将棋の種類としては
泰象棋(縦横25目、駒354枚)
摩訶大々象棋(縦横19目、駒192枚)
大々象棋(縦横17目、駒192枚)
大象棋(縦横15目、駒130枚)
中象棋(縦横12目、駒92枚)
小象棋(縦横9目、駒46枚)猛豹×2、酔象
小将棋(縦横9目、駒40枚)
などが知られており、象棋と呼ばれる物は取った駒の再利用は出来ませんが、小将棋だけが再利用可能で現在の将棋です。
現在、実際にルールが解っているいるのは中象棋と小将棋の2種類だけですが、特に中将棋は明治期まで一部高貴な人達により楽しまれ、少数ながらも今日にも愛好家により親しまれ伝えられています。
現在ではほとんど中象棋の駒を作る作者はなく、残された駒のほとんどが大正期以前に作られた駒で、中でも安清の作による駒が最も多く残されており、本駒と同様あるいは似た花押を用いる作品が多く、同じ安清の一派と思われます。
本駒は、王将の高さ28.5×25.6mm厚さ10.mmで歩兵は高さ21.8×17.3mm厚さ5.8mmと、小型の割りには多少厚い駒形で、材質は薩摩黄楊と思われ、板目の木地です。
本駒花押の作者は江戸期から明治初期まで活躍した作者ではないかと思われます、また本花押作者は中象棋に多く見られ、書体は安清らしい安清書体の作者で、前沢碁盤店にて蔵されている中象棋の駒と花押及び書体は同じで同一作者です。
本駒の安清花押と非常に良く似た花押の作者に、本駒よりも大型で厚い駒形に水無瀬書体の中象棋の駒作者(安清花押リストの中で一番左の銘)があり、その出来は非常に優れた作品で、花押の形から本作作者はその弟子か二代目ではないかとも思われます。
又、徳川美術館に残る福君の雛道具の菊折枝将棋盤の駒作者は花押一覧左から三番目は全く同じ花押であり、同一人物であり、初代安清かと思われます。
本駒作者の花押も何らかの官位を受けた者と推測でき、二代目安清の作ではないかと推測できます。
安清については現在何も明確な歴史事実は判明しておりませんが。残された駒や極めて少ない記録から数々の諸説が語られます。
そんな中の一説として、安清の始祖は将棋駒作者の最も古い記録として残る三条西実隆(1458-1537)と同時代から続く将棋駒作りを生業とする京都の公家一派で、囲碁宗家の本因坊家や将棋宗家の大橋家とも関係を持ち、江戸期1660年頃に大橋家が江戸に上る最、その中の一派は同行し江戸に移り住み安清を名乗り、又その中の一派は尾張に移り住み清安と名乗って駒作りをした。とされ幸田露伴などは安清は32代に渡り、水無瀬家よりも古くから続く将棋駒師の一家であるとしています。
また、本来、安清一派は水無瀬兼成と同じく水無瀬書体と呼ばれる書体を用いており、この書体は水無瀬兼成のオリジナル書体ではなく三条西実隆の時代にも用いられ、古くから公家衆に伝えられた由緒ある書体であったろうともいわれております。
事際に、安清も清安も後水尾天皇も水無瀬も全く同様の書体である事からも考え得る仮説ですが、三条西実隆や古い時代に作られた駒が発見されれば謎は解明されるでしょう。
安清は、江戸後期に多くの駒を残しますが、その書体は本作の様な水無瀬の書体構成ながら独特な行書体となり、突如、安清の駒は明治期以降になると、その痕跡が消滅してしまいます。
今日に残る駒は、中将棋の書き駒の作者、小将棋の書き駒の作者、象牙の彫駒の作者、略字細字彫の作者、草書体書き駒の作者と、それぞれの分野により花押の形は違い、また作風も異なりますので、それぞれ別々の作者と思われます。
江戸末期の安清の彫駒
本蒐集の大阪芙蓉のコーナーの彫駒を花押を含め上記の駒と共に是非ご覧ください、江戸幕府崩壊後に突如派生した大阪の増田芙蓉の駒が、安清の駒形式を引き継いでいます。
花押は個人の官位や出身など個人の公的サインとして用いられ、同じ個人でも官位などの変更により花押も変更されます。
花押の形から大きく分けて本家と分家の様に別れたのではないかと思われ、簡素な花押と多少複雑な花押と多様に存在しています。
安清銘は江戸期の幕府御用達の銘として、当時の支配階級により管理運営されて、武士階級の利権であったと思われます。
当時の下級武士にとっては良い収入職として下級武士階級が実際に駒作を行い、上層武士階級の役得利益の源泉だったのではないでしょうか。