現代駒師の祖として高く評価される豊島太郎吉です。
太郎吉自身により製作された駒は、製作数が少なく、震災や戦災によりその多くが失われ幻の駒となりました。
本駒は、非常に小さな駒型が用いられ、駒一杯に董仙書が書かれています。
駒の木地は薩摩黄楊が用いられ、その駒形の整形角度が明治期の法眼薫斎書の駒と同じ角度で、大正期とは異なります。
駒の大きさは、やや不揃ですが、王将29.0mm歩兵22.6mmとなり大正期の駒よりも小型で明治期の駒に良く見られるサイズです。
長年の使用により彫埋状態となっておりますが、盛り上げ駒です。
また漆の欠けた部分を見ると、現代の彫とは違い非常に浅彫で彫るのではなく削っているようにも思えます。
漆も、画像から判断できると思いますが、駒銘の漆が変色している事が確認でき、又、駒字画像では盛り上げ前に生漆で下書き又は目止めの漆なのかは判断できませんが、文字の周りの薄く残った漆が朱色に変色しているのが見えると思います。
また、木地そのものが経年変化によりヒケており多少の変形すら見えます。
以上の特徴などから、本駒が大正期以前の古い駒だと判断できます。
さて、駒師銘は「龍山作」「恊蜿早vです、この龍山作の銘書体は非常に変わっており、他に例が見られない書体です。
書体は数次郎が残した董仙書の字母帳と多少異なりますが、文字書体は全く同じ書体で、本作は豊島太郎吉が明治期に作った駒に間違いありません。
また、明治期に作られた.法眼薫斎書の駒に比べると彫り埋め状態に成るほど使用されており古く見えますが、.法眼董斎の駒はあまり使用されず、大事に保管されていましたので、おそらく同年代の頃に作られたもので、どちらが古いかは判断できません。
書体名も「董仙書」ではなく「恊蜿早vとしておりますが、「董斎」に対して「薫斎」とした例と同様なのでしょう
松本董仙は幕末の書家、松本薫斎の長子で父親と共に書家であり共に将棋棋士として知られ、天野宗歩門で五段、次男は松本竹郎七段、三男の桂月は尺八を職とし三段、董仙は明治二十年「武総将棋手相鑑」では三段で、日本橋の瀬戸物町に住んでおり、「董仙詰物集」という詰将棋の本を残します。
松本竹郎の兄ではないかとの説がある人物に、松本朋雅(本名松本知義)(父 董斎は正義とも盛義とも云います)がいます。
松本朋雅は、弘化二年(1845)生まれ、明治四十一年(1908)以後に没したと推定され、将棋六段まで進んだとされます。
朋雅は、明治三十七年(1904)には日露戦争記念詰将棋十七番を作り、闘病中に作った詰将棋百番と共に明治三十七年から四十年にかけて東京の『二六新聞』に朋雅の作った詰将棋が連載され、東京に住んでいたとされます。
松本朋雅と松本董仙が同一人物である物的確証はありませんが、董仙は書家号、朋雅は棋士号です、共に詰将棋の創作作家で、共に高段棋士で、同年代に生き、同じ東京に住み、さらに父親の名前の一字「義」を継ぐ事からも、おそらく同一人物だろうと思われます。
いずれにせよ、明治期の書家であり将棋棋士であった松本董仙は自筆で駒字を書いた可能性が非常に高く、同時代に将棋棋士であった豊島太郎吉とも親交があったと推測され、本駒の董仙書は松本董仙の自筆の書から作られたと思われる程書き駒の雰囲気を色濃く残しています。
後に残された豊島字母帳書体の董仙書は本駒書体の筆使いを落とした書体で文字のサイズは本駒書体とほぼ同じです。
豊島の残した大正期以降の董仙書の駒は、空白部分が広く文字とのバランスが悪いのも本駒書体の写し字母であったからで、しかも書として写した物ではなく駒書体として写し取った為に、実戦では見易いかもしれませんが少々味気ないものになってしまい、特に王将などの持つ重厚さや力強さは失われてしまっています。
太郎吉が残した本駒は手書き風に駒一杯に董仙が書いた書を見事に表現しており、本物の董仙書は味わい深く、文字としても芸術性の高いものではないでしょうか。大正期以前の駒の多くは将棋の駒に書をしたためたもので、決してレタリング文字ではなかったのです。
豊島の董仙書の駒は非常に残存数が少なく、数次郎が作った大正期以降の駒も含めて数組しか残っていないと思われます。
下画像は大正期の董仙書との比較の為にどちらもスキャナーで画像を撮りましたので書体は正確です。
本駒の董仙書 |
大正から昭和初期の董仙書 |