龍山作 十三世名人関根書
大成会創立記念駒 写真をクリックして下さい
本将棋駒は将棋連盟創立記念に関根名人が豊島に50組ほど作らせ、小菅劍之介が、四段以上の専門棋士と関係者に創立記念として贈った駒です。
記念駒は王将駒の裏面に、「昭和十一年六月二十九日・将棋大成会創立記念・冠峰山人寄贈」と彫られており、戦災により多数が消失され残存するのは数組だけと思われます。
前所有者の話によると、当時の状態の未使用のまま駒と駒箱が揃っていたとの事で、駒は未使用だが駒箱は震災で一部破損し修理したとの事です。
駒箱については、一般に贈られる時には必ず駒とセットで贈られるものですが、普及品の桐駒箱に入れられて贈られたので駒箱を新調した可能性もあり、贈与された駒箱かどうかについては不明です。
駒箱作者については豊島のお抱え駒箱作者、稲田勇師の作ではなく豊島の高級駒箱の外注作者の手による物と思います。
他の記念駒所有者からの情報をお願い致します。
さて、数次郎未亡人のトミ夫人の証言によれば「関根名人は字が下手で駒文字は関根名人の自筆の書を参考に豊島が将棋駒に合うよう書体を作り関根名人書とした」と話している。
又、昭和4年2月発行の「将棋月報」の「耕 男生」による記事に「(関根名人が)豊島太郎吉翁に懇望され名人自筆の駒文字を書てやつた、それが非常に好評を博し、歓迎され全國へ澤山賣出されてゐる今でも續々注文があるといふ、妙なもので名人自筆の駒で指して居ると何處かに落付があつて自分が名人になつたやうな気分で指せるさうだ」と書かれています。
矛盾する話ですが、豊島の「金龍書」は関根名人自筆の駒(淇洲駒の写)で、大正から昭和初期に大量に売れた書体です。
また、関根自筆の書が豊島工房を一躍躍進させ近代駒の祖と呼ばれる程の原動力となり、後に多くの名工や書体を生んだ礎になり当時短時間で記念駒を作れる程の実力のある工房は豊島工房以外には無かった事が偲ばれます。
それにしても、本当の関根名人書は「金龍」で、この関根名人書は「豊島書」と言うことになります。
何とも皮肉な話ではありませんか。
当時豊島の盛上駒は一組20円程で、当時はお米10kgが2円50銭、住み込みの女中や見習い職人が月給10円で、高級職であった公務員や会社員が月収100円程でしたので、豊島の盛上駒は一組およそ20万円くらいの価値でしょうか。
それを60組、約1200万円をポーンと寄付した小菅は株などに投資して莫大な富を得た資産家で小菅にしてみればポケットマネー程度でした。当時、小菅剣之助は三百万円の資産を持つ大金持として有名でしたので現在の貨幣価値に直すと三百億円の資産家だったのです。
冠峰山人とは小菅剣之助名誉名人の号で、元治2年1月24日(1865年2月19日) - 昭和19年(1944年)3月6日)は、将棋棋士(名誉名人)、実業家、国会議員。八代
伊藤宗印門下。将棋大成会は小菅劍之介、関根金次郎のもとに2団体が統一し、将棋大成会となり、第1期名人戦を開催し、木村義雄が実力制の最初の名人の座に就いた。現在の日本将棋連盟です。