龍山作・菱湖書 (彫銘)
豊島龍山の菱湖書駒は高濱禎による創作書体である事は既に知られており、その書体は豊島字母帳にも残りますが、現存する豊島龍山作品の存在は極少であり、長年、豊島の菱湖作品は確認されておりませんでした。
唯一無二、本駒の存在は予ねてより知っておりましたが、その画像から豊島作品であろうと確信するには疑問が残りました。
疑問の第一は彫銘の稚拙さとバランスの悪さで、数次郎の作とするには自信が持てません。
また、作品の盛り上げも数次郎の特徴が有るものの、画像からは明確には判断できず、比較する他の豊島菱湖作品もありませんでした。
しかし、前所有者の事情により売却の希望があり、本駒の実見の機会を得る事になり、調査の結果、豊島龍山(数次郎)の真作で間違いとの結論を得、私のコレクションに加える事となりました。
従来将棋の真贋判定の方法は、鑑定家は漆の盛り上げ状況の美的感覚による方法で、鑑定人の個人的感想でしかなく、鑑定根拠に客観性は無く不正確です。
しかし、多くの豊島作品を収集しデーターの蓄積から、作品の時系列等を整理することで、判断材料が増え、より正確に真贋判定が可能となります。
そこで、今回の真作判定の決め手は、駒木地にありました。
本作の菱湖書作品は駒整形に機械工具を用いられた物ではなく、鉋による整形であった事、そして整形サイズや角度が大正後期に用いられた他の豊島作品と全く同じであった事、そして木材料が大正期に好んで用いられた、根材である事から、大正期の豊島工房作品である事を確認する事が出来ました。
おそらく、本作品が唯一の豊島龍山が作成した菱湖書作品であろうと思います。
作品の、漆の盛り上げも、拡大鏡を用いる事により詳細に観察でき、数次郎の作品に間違いないと確信でき、むしろ、若い数次郎の思いっ切りの良い技量の素晴らしさを再確認させられる事になりました。
世に多くの駒作者はおりますが、後にも先にも豊島数次郎を超える駒師はおりません、数次郎こそNO1の駒師であり、影水や静山の作品よりも遥かに1枚も2枚も上であり、自由で在ると感じさせられます。
本作は使用され漆の減りが認められる事は残念ですが、それでも、数次郎の素晴らしさを十二分に堪能できる名作品です。
駒は画像で観ると実見して観るとでは雲泥の差が在るものと熟く感じますが、本画像からも少なくとも感じ取れるでしょう。
本作品が大正期の豊島作品である事を確認できた事により、豊島が最初に菱湖書書体の駒を作った事を再確認でき、昭和初期の奥野の菱湖書は二番煎じであった事も確認できました。
では、どうして奥野の菱湖書が戦前は主流で、多数の駒を生産し現在に残り、豊島の菱湖書は本作以外に確認できないのでしょうか?
私の憶測ではありますが、高浜禎が菱湖書の駒書体を研究していたのは大正8年頃であり、その時期に豊島に駒製作を依頼した事は確実です。
おそらく高浜禎からのオーダーがワンメークであり、豊島が自由に使用して販売出来る書体ではなかったのでしょう。
本作が彫銘であり、この作品の出来からして高浜禎の発注に応えた作品であろうと想像致します。
大正から昭和初期の当時、職業駒師工房は量産駒とオリジナル駒作品とは別に生産しており、量産駒は外職による大量に生産されますが、駒作家の作品は注文による作品しか生産できません。
特に、オリジナル書体の駒ともなれば字母紙用の版木地作成から行いますので、仕上げまでに数か月は必要ですので、駒作家の駒書体への拘りや、駒作成の熱の入り度は格別であった事でしょう。
それに対し、初代奥野氏の死去に伴い奥野幸次郎の奥野商店再興に協力する意味から、奥野は高浜禎の許しを得ていたのでしょう、同様に奥野の「明鶴」も高浜禎の同時期の奥野への協力であったと考えられます。
昭和2年に奥野家の長女が嫁いだ東京将棋連盟会長の土居市太郎へ高浜禎の忖度があった事は想像に難しくありません
私の奥野コレクションに「昭和大興記念・菱湖書」がありますが、某有名自称鑑定家は、昭和大興記念・菱湖書は豊島数次郎の作だ、と強く主張して、口論となった事がありますが、本作品の発表により誰でも見比べて確認する事ができます。
豊島数次郎と奥野幸次郎の作品の違いが明確にご理解頂けると思いますので是非見比べて違いを感じて下さい。
豊島菱湖と奥野菱湖とは字母紙その物が違いますが、盛り上げの感性も全く違う事がご理解頂けるでしょう。