駒銘篁輝
豊島が残した豊島字母帳には行書と隷書の二種類の篁輝の書体字母紙が残されています。
行書書体の駒は多くの駒師により模倣され、篁輝と言えば行書の篁輝を思い出す人も多いと思います。
しかし、篁輝には、渡辺千冬による無剣書に極似の篁輝があり、書体字母紙は残されていても、実在する駒はほとんど見られず、幻の駒となっておりました。
隷書体の本駒は駒木地成型などから昭和初期の無剣製作時期と同時代ではないかと思われます。
表の隷書は無剣書とは異なりますが隷書体は同じ流派の書と思われ、裏の隷書は歩裏以外は無剣書とほぼ同じです。
明治の頃、日本の隷書体は標準化が薦められ、日下部鳴鶴が門下3000名を束ね、後の書体の標準となりましたが、多くの書道家を育てた事も事実で、日下部鳴鶴流の書体系なのでしょう。
では、書体銘「篁輝」とは誰なんでしょうか、過去にも多くの駒研究者が調査しましたが判明できず、篁輝名の作品は見つからず、現在に残す著名な古書も残っておらず、書家一覧にもありません。まさに作者「不詳」なんです。
さて、「篁輝」とは、「篁」は竹林を意味する漢字です「輝」は光り輝く事で、自ら光る様を言います。
「竹林で自ら光る様」とはまさに、竹取物語、或いは、かぐや姫を暗示しています、豊島太郎吉は静岡県清水の出身ですから、清水の三保の松原の「羽衣伝説の地」としても有名ですし。
静岡県の富士山は竹取物語では、帝が天人から頂いた不老不死の薬を、かぐや姫のいない世を悲しみ、駿河国にある日本一高い山で焼いてしまった。
その山は「不老不死の薬を焼いた山」→「不死の山」→「ふじの山」→「富士山」となったとされています。
日本人なら誰でも小学校などで習って知っている昔話です、最近の若者は「輝夜姫」なら知ってるでしょう、私は夜になると輝くお姉さんは大好きですが、数次郎も大好きだったようです。
冗談はさておき、「篁輝」とは実際に探しても作者「不詳」で、すが、それでも、何とか推測してみますに「篁輝」をそのまま「竹林に光る」、と受け止め太郎吉の願望を表している、と解釈してみてはどうでしょうか。
太郎吉は長年駒作り販売や書体研究に没頭してしておりますが、だからこそ自分自身の書体による駒を作りたい、残したいという願望を懐くのは当然の事ではないでしょうか。
あるいは、当時、多くの駒作者がいる中でも自分自身こそ日本一の駒作者だ、との思いが有っても不思議ではありませんし、願望でもあったのではないでしょうか。
そんな願いを駒に託して自分の書体を「篁輝書」と命名して駒にして残したのではないかと、「竹林に光る一本の竹」と考えてみて篁輝の書体を見てみるのも趣向ではないでしょうか。
この駒の作成時期は「無剣」作成後の数年後だと思います、理由は「無剣書」は当時大変に有名であり無剣書の駒を求める人も多かったのではと思います、しかし、無剣書の駒を渡辺千冬に無断で販売する事はできません。
ならば、良く似た書体を太郎吉が考案して渡辺の許可を得たのではないか、と考えられなくもありません。
無剣に似てはいますが、玉、王、金、銀将の各文字も異なり、なにより駒自体が普通の駒より大きいのですが、「無剣」より一回り全部の駒が小さいのです。
私は「篁輝書」とは豊島太郎吉自筆の書であると想像してみましたが、案外と案外かも知れませんね。