龍山作・清安書 (阪田好・三代目安清)    

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龍山作・清安書  (阪田好・三代目安清)

本駒は、木地成型から本駒の製作時期は昭和11年以降の作品です。
本駒は特別に大型な駒であり特別な彫銘の駒です。この駒は豊島作・清安花押と対となって隠された意味のある駒です。

昭和12年に読売主催「大棋戦」で「阪田好」の駒が使用されました
「大棋戦」は阪田、木村の対決が昭和12年2月5日〜11日。阪田、花田の対決は昭和12年3月22日〜28日に対局が行われました。
「大棋戦」とは木村と花田氏とが十一年の暮れ頃、当時二人は名人戦の鍔競合の最中に出た話であったそうで、阪田氏の将棋大成会参加の企であった。
この二人の申し出に阪田氏は「盤と駒とは是非新調して使おうということになった。 その時に阪田氏が言うのは、盤は少し大き目に、それから駒は柾目の正しく通ったのを使いたいと希望を出した。」と対戦を引き受け将棋大成会参加も引き受けました。
東 公平氏によれば「阪田翁はもともと視力が弱い人だった。そのために特別に線の太く引かれた八寸の将棋盤三面、肉厚で柾目の阪田好みの駒三組が、この対局のために新調されていた。
菅谷北斗星氏によれば、「今度の対局にもやはり阪田氏の希望によって、同氏好みの盤と駒とを使っている。駒の裏にはちゃんと『阪田好』と三字が明記されてあるのだ。」と書籍に掲載されました。
阪田はこの時使用する駒を、数次郎に任したのです。
目の悪い阪田氏の求めに応じて、大き目の盤に合う大型の駒を急遽作る必要に迫られて作った書体が本駒と同じ清安書体です。
下記画像の駒がその時に使用され、数次郎により作成された駒で最近の現代サイズの大型の駒です、駒成型も本駒と同じ成型で同時期に作られた駒です。

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使用された駒       対局画像   記事

この「大棋戦」をもって、阪田三吉の将棋大成会参加により日本の将棋界は名実共に統一され、後の日本将棋連盟となって行き、実力名人戦としての初代実力名人として木村義雄が十四世名人を襲名します。
当時の最高段位は八段で名人に与えられた段位でしたが、

阪田三吉は昭和21年に亡くなりますが、昭和22年には北条秀司による戯曲「王将」が発表され、新国劇の舞台にも演じられ、以降には映画やテレビや歌にも歌われ、一躍、戦前の将棋界の異端児として有名となり棋界の大スターとなります。
将棋名人との対局は当時の新聞社が主催して名人又は前年優勝者に挑戦する棋戦として行われ、昭和25年から一般棋戦として行われ、「王将戦」として定着し、この名人級の人達による棋戦の決勝戦は 三番手直りの指し込み制で行なわれ人気を得し、木村義雄十四世名人によれば将棋名人よりも王将位の方が難しく、名人位より格の高いタイトルであると言わしめた。
8大タイトル戦となった現在は7番勝負となり、指し込み制は規定に残りますが、指し込み制は勝者が半香落ちでの対戦となり、勝敗結果はタイトルに変わりなく、王将にとっては負ければ恥となる罰ゲームみたいなもので、現在では勝者の仮装を罰ゲームとして行い、指し込み戦は免除されている。
この「王将」位は阪田三吉の没後、昭和30年に生前の功績を称え阪田三吉に「王将」位を贈りこれを記念しました。

昭和18年には「九段設置戦」が行れ

棋聖の称号は天野宗歩に与えられた称号で、小野名人当時に「実力十三段」として関根金次郎を公式に棋聖とし、阪田三吉はこれに対抗して、西の棋聖と呼ばれました。
現在の棋聖タイトルもこの天野宗歩を記念して名人を超える「実力十三段」の称号なんですが、名人に次ぐ実力者を決めるタイトルとして、昭和23年に全日本選手権として始まり、九段戦、十段戦と名称を変えて昭和三十七年より棋聖戦となり、竜王戦となります。



将棋史を研究する者にとっては名人、棋聖、王将が戦前の名人級の敬称なのですが、賞金額によってタイトル序列が決められ、必ずしもこのタイトルと序列は決して一致されませんが、伝統の将棋史からは伝統的価値のあるタイトルです。
駒収集家としてはタイトル戦使用駒も将棋史に則して、棋聖戦は「宗歩好」、名人戦は「淇州書か水無瀬」、王将戦のタイトル戦には本駒の「太字の清安」を採用とかして欲しいものですが、いかがでしょうかね?
女流名人戦には当然、信華の「源兵衛清安」でしょうか、AIとの棋戦が発端となった「叡王戦」は解説でおなじみの一字書体とか、面白いと思いますが、いかがでしょうか?


昭和12年の「大棋戦」に使用された上記の駒の銘は「阪田好」「三代目安清書」で作者銘は記されておりませんが、豊島龍山(数次郎)の作品です。
この時、数次郎はこの新作の書体に何故に「三代目安清書」と銘を入たのでしょうか、また三代目安清とは誰でしょうか?

私の蒐集駒で「菊折枝蒔絵の将棋盤、駒箱、駒」と全く同じ書体で書かれた「清安花押」銘の作者は、同じ書体同じ花押で「安清花押」銘の駒を残しており、おそらく清安から安清に銘を変えた駒師が初代安清ではないかと思われます。
但し、清安は安清三代目である可能性は十分に有り、初代安清は確定している分けではありません、その状況を示唆する物証もありますが、確証となる資料はありませんので、とりあえず暫定的に清安を初代安清としています。
ですから、今後も安清についての研究を要します。

(清安)安清は1800年代の4半世紀前半に活躍しましたので、その子孫達の2代目は幕末から明治期、三代目は明治期から大正期の駒師であろうと推測致します。
そこで、坂田三吉とも交流が深かった、増田弥三郎が実は三代目の安清に当たるのでは、と考えますと、「阪田好」「三代目安清書」の謎が解け、多くの疑惑の点と点が線で繋がります。

信華の父である増田弥三郎は自分の作品には芙蓉・花押あるいは増田芙蓉筆を残す作者で、安清も安清筆と銘を残します、(芙蓉のコーナーをご覧ください)。また中将棋の安清・花押の作品の花押もご覧ください、花押の形が安清の花押と良く似ています。(子孫である二代目安清は直系分家を含め花押の数だけ複数存在します)
明治・大正期に関西将棋駒界に一大勢力を誇った「芙蓉」です。
駒作りをしていた武士階級の増田家だからこそ、大政奉還で失職した下級武士をまとめ上げ、関西で彫駒作り集団の「芙蓉」を作り上げれたものと思います。
ちなみに、「芙蓉」とは上級武士が上様である将軍に謁見する為に控える部屋「芙蓉の間」を管理する身分であった事を暗示しています。

私は、増田弥三郎は、清安(安清)の跡を継いだ多くの子孫の一人ではないかと推測する事で全ての謎が解けました。
「阪田好」「三代目安清書」の銘は、信華の父(三代目安清)へ奉げた、数次郎の謝罪と感謝のメッセージを込めた駒銘だったのではないでしょうか。
この書体は信華の父に奉げた書体であり、源氏の兵衛の清安の書体として「清安書」としたのではないかと思います。
或いは、「清安」とは、三代目安清であるとの意味であるかも知れません、今後の歴史資料の発見や研究に期待します。

信華が実家から豊島に持ち込んだ清安の駒から結婚当時に作成した細字の清安は信華個人の著作書体として、数次郎は離婚後には決して作成しなかったし、信華が義父だった太郎吉の支援を密に受けて駒を作り続けられた事も、信華が細字の清安を頑なに作り続け、後に信華が「源兵衛清安」とした謎も解けます。
実は、本駒と同じ製作時期に、本駒同様の豊島成型の大型の木地に信華が「源兵衛清安・花押」「増田信華作」の駒を作っています。
おそらく、その駒こそ信華の数次郎に対する本駒の返答だったのでしょう、気持の上でやっと整理が付き、増田家の信華として生きて行く決心の表れではなかったかと思います、その駒に記した花押と、結婚当時の数次郎が作った細字の清安の花押は同じです。
又、信華と同じ時期に数次郎も、同じ書体(新婚当時の清安)で二人が示し合わせた様に初めて、「源兵衛清安・花押」と銘を入れた駒を作っています。
「源兵衛清安」とは数次郎と信華の忍ばれた関係の終焉で、信華と数次郎二人の「源兵衛清安・花押」駒は、決して公には出来ない二人のロマンス共演の終幕の駒だったのです。


後妻のトミさんは、結婚生活していた当時から信華の存在を全く知らされておりません、回りの人間を含めて、信華の存在は豊島家の絶対の秘密だったのです。
戦後リーガルがトミ未亡人に取材した際、の録音テープに(昭和9年頃の話として)、「結婚後、数度豊島家を覗き込むように隠れて見ていた美女がいたとの事で、後日近所の人に相談したら、近所の人が「数次郎は既に結婚したよ」とその美女に話してくれたそうで、その後ピタリと美女の姿は見られなくなった」と話しております。
おそらく、この美女とは信華本人ではなかったのではないでしょうか。

また、この当時、関西旗界からも関東旗界からも見放されていた坂田三吉が突然豊島家に表れ、トミ未亡人は挨拶させられたそうです。関東旗界に反目していた坂田三吉が何用でこの時期(昭和9年頃)に東京に来ていたのでしょうか?信華の父増田弥三郎の急変か数次郎再婚に伴う増田家の立場を伝えに来たのではないでしょうか。
又、関西将棋界は突然どうして坂田三吉を見放したのでしょうか、おそらく阪田三吉と懇意であった増田弥三郎の息子に大きな政治的疑惑が発覚したのが原因ではないかと思えます。その事は信華の源兵衛清安花押・増田信華のコーナーをご覧ください。

以上が私が考える、本駒が特別な駒として作成され、二つの清安書として字母紙に残した理由ではないかと考え、数次郎と信華の隠れたロマンスです。
本駒の書体は江戸期の「清安花押」の書体を豊島数次郎の感性で添書した書体で、書体としては水無瀬駒の模倣ですが、伝統の書体を全く新しい書体と感じる程に改修創造する実力こそが、現代駒師の祖とされる所以であります。


この太字の清安は大型の駒用の字母ですから、現代サイズの木地にそのまま作れば丁度良いサイズですよ。