豊島龍山作・源兵衛清安・花押
先の豊島龍山・清安・花押でも説明いたしましたが、数次郎の手による源兵衛清安の書体駒は先に紹介した新婚当時の堀銘駒以外には見た事がありませんでした。
従って、本駒を見た時は驚きと共にこの駒によって隠された真実が解けた感じがしたものです。
さて、本駒の製作時期は、駒木地成型から昭和10年以降の作品で、ちょうど豊島の太字の清安(三代目安清・坂田好)が作成された時期と同時期の作品である事が確認できました。
用いられている駒木地からして、当時特別な人に贈られた作品であったと推測され、おそらく「源兵衛清安」の銘を最初に用いた作品であろうと推測出来、又、増田信華との新婚当時に作られた彫銘の「清安・花押」と同じ花押を用いている事により、何か特別な事情があった駒であろうと思われます。
本駒は一見すると漆の劣化が激しく大正期や昭和初期の駒に見えますが、漆は保存状態により大きく異なりますので、駒木地や整形が重要な時代考察の要素となります。
調査の結果、駒木地は昭和10年以降に整形された木地であり、豊島後期の作品で間違いありません。
豊島数次郎と増田信華の婚姻関係が数年後に突然に離別となった事実と、離婚後の二人の関係が残された駒から語り、推測されます。
私の研究テーマの一つである「源兵衛清安」についても新婚当時の「清安・花押」の駒や昭和10年以降の同時期に作られた「太字の清安」(三代目安清・坂田好)そして「増田信華作・源兵衛清安・花押」や本駒「豊島龍山作・源兵衛清安・花押」の存在から「源氏の衛兵である清安」と云う意味で用いられ、安清は清安と同一人物である事などから、大阪の増田家は江戸期の安清の末裔である事が推測させられます。
日本の歴史文化である将棋の駒について、まだまだ解明されていない部分が多く、江戸幕府崩壊による時期と、第2次大戦により駒文化の継続が途絶え、今日に誤った日本の歴史文化が伝えられています。
現実に今日に残され、その時代その時代の世を映して残された駒は、その歴史を明確に反映して残された物証です。
将棋駒は将棋を指す為の道具ですが、駒は日本文化の歴史の遺産でもあります、ご自分が使用する駒について、作られたその書体の時代背景や由来を理解した上で使用する事で、勝負だけに拘った将棋から、日本文化の将棋そのものを楽しむ将棋へと変えさせてくれるでしょう。
本ホームページの江戸期の「清安・花押」そして江戸期末期の「安清・花押」さらに「大阪・増田芙蓉の駒」、そして大正〜昭和初期の「豊島龍山作・清安花押」
更に昭和10年以降の同時期に作られた本駒「豊島龍山作・源兵衛清安・花押」と「龍山作・清安(三代目安清・阪田好)」や増田信華の「増田信華作・源兵衛清安・花押」を是非ご覧下さい。
将棋駒を通じて日本文化の歴史を感じ取って頂けると思います。
将棋棋士にとって将棋駒は武士の刀と同じ「棋士の魂」と言われています、自分が愛用使用する駒についての歴史的知識を知ってこその言葉だと思います。