龍山作・金龍書(淇洲書の写し)     

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近代将棋駒の祖 豊島龍山

大正期には高級駒を太郎吉が普及駒を数次郎が担当したようです、しかし数次郎は数年で師匠である父よりも上達し、駒製作のほとんどは数次郎の仕事となり、太郎吉は字母の作製や販売渉外を担当していたようです。
本作品は後期の金龍と書体が異なり、前所有者の証言と将棋盤裏の添書きに大正10年猛春に退職の記念として職場から贈られた物と記されています。当時数次郎は十六歳頃ですが、既に天才の片鱗を見せ大人顔負けの仕事ぶりだったそうです。
「金龍書」「龍山作」の銘書体は太郎吉の書体で、双玉書体でもあり、駒サイズが小さく、また駒の作風などから、太郎吉の作品かとも思えますが、しかし本格的に駒作りを始めた当時の若き数次郎の作ではないかと思われます。
また、双玉の金龍書は極めて珍しく、何か秘密が隠れていそうです。

金龍とは書体名ではなく駒師の銘で江戸末期頃に流行した駒師で、市河米庵や方眼董斎書などの書体を得意としております。
実は本駒の書体は駒師金龍の書体ではありません。


豊島の金龍書体は本当に金龍の書体なのでしょうか?
将棋月報昭和4年2月号で耕男生は「棋道 風雲児関根金次郎はコノ名駒を真向にして遂に天下を征服した「錦旗」の名は斯の如くして命名されたのである、此駒は其後諸方で模造し、販売されている何しろ天下取りの駒形とあつて棋家はこぞつて縁起の好い錦旗形を求めるのも無理はない次第だ、豊島太郎吉翁に懇望され名人自筆の駒文字を書てやつた、それが非常に好評を博し、歓迎され全國へ澤山賣出されてゐる今でも續々注文があるといふ、妙なもので名人自筆の駒で指して居ると何處かに落付があつて自分が名人になつたやうな気分で指せるさうだ」と書かれております。
注・コノ名駒とは淇洲の駒で、錦旗形とは淇洲書の事です。

 昭和3年2月号 将棋月報           
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此処で書かれいてる「錦旗」とは関根名人の所有する竹内淇洲から贈られた駒の事であり、所有者である関根名人が豊島太郎吉に「錦旗」の駒を自筆で写した駒文字を贈り、豊島はこれを、立身出世の駒師(金龍)に「錦旗の駒」を懸けて金龍書としたのではないかと思われ、当時豊島が沢山生産した駒の書体です。
豊島の金龍書は関根名人が所有する淇洲駒「錦旗の駒」を写した「関根名人自筆の書」であり、これが豊島の金龍書体です。
松尾昇龍の昇龍書も淇洲書を駒師が写しただけに豊島より淇洲書に近い書体であります。

さらに、高浜禎の覚書帳の駒目録には大正八年に「金龍書 大正八年五月」と「金龍筆真写 大正八年八月 木地奥野選」の二種類の駒を作らせ所有していたと記されています、この記録からして明らかに「金龍書」とは別に「金龍筆真写(法眼.董斎書)」の二種類の違った金龍書が豊島には存在し、今日に多く残された「金龍書」は淇洲書「錦旗の駒」の写し書体で、駒師金龍の書体「金龍筆真写(.法眼董斎書)」は別に存在し、豊島の.法眼董斎書は駒師金龍の法眼董斎書の写しです。

熊澤氏は「名駒大艦」で熊澤氏が実見した金龍造の駒(安清書体)は双玉であったと言われます。
幸田露伴は「将棋雑和」の中で「金竜や真竜は駒の文字も正しく、読み易く、玉は二枚とも玉と書いて王とは書かない」と記しています。
また、竹内淇洲の『将棋漫話』に「淇洲は金龍、真龍などの江戸駒にあきたらず、理想とする駒の製作に苦心した。」とあり、竹内淇洲は金龍や真龍の書体とは異なる書体の駒作りに苦心しており、淇洲書は駒師金龍の用いた書体ではありません。

以上の事からも、本作品は豊島龍山が関根名人に書いてもらった双玉の淇洲書「錦旗の駒」を金龍書として、その関根名人自筆の書を忠実に再現した双玉の、極めて初期の作品です。
豊島の金龍書は「錦旗の駒」の書体とされ当時大量に全国各地に販売されて、豊島工房の経済的基盤を築き上げました。

豊島の金龍書は関根名人自筆の棋洲書なのです。

本蒐集覧の中に本物の金龍(二見氏治)の駒がありますのでご覧ください。


      大正後期から昭和初期の豊島の金龍書