坂田三吉名人就位記念
豊島龍山造・金龍書
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豊島龍山造・金龍書
大正十四年四月十日、京阪神の財界有力者八十余名の主唱者により、坂田三吉を名人に推薦し「坂田名人推薦式及び祝賀会」が、大阪東区「堺卯楼」で開催された。
当日、坂田三吉後援会代表者の品川良造氏(大阪変圧器株式会社社長)へ坂田三吉から将棋名人就位記念のお礼として駒と駒台に駒箱が贈呈された。
駒は「豊島龍山造」「金龍書」の盛り上げ駒で島黄楊材の虎杢です。
駒箱は厚手の黒柿材に中蓋付きの珍しい形式の駒箱、添えられた駒箱の内蓋に
贈 品川良造氏 名人 坂田三吉
と刻まれている。
駒袋は茶色の正絹縮緬表木地に「坂田」の銘入り、正絹裏地付きの袋。
駒台は、駒箱と同じ黒柿材に巴脚付きの組み立て式で中柱には「坂田好」と刻まれている。
駒箱と駒台については、1992年京都書院発行の「おもちゃ博物館遊戯具」の中に阪田三吉所縁の駒、駒箱、駒台、阪田三吉の馬の書が紹介されており、駒台と駒箱は本作品と同じ黒柿で作られた作品で、阪田三吉が支援者に駒を贈る時に用いられている、それこそ三吉好みの作品です。
さて肝心な駒について、「豊島造」に続いて作者銘に作では無く「豊島龍山造」とした駒も本作以外では見当りませんので、太郎吉の作と思いますが、数次郎は20歳となり既に天才駒師として一人前となり、太郎吉は63歳の高齢となり、駒製作のほとんどは数次郎がしています。
とはいうものの、本作品は坂田三吉から名人を名乗るに当たり贈与の目的での作品依頼が太郎吉にあり、太郎吉の手による駒の証として「造」銘を入れたものと推測でき数次郎の手によるとしても、太郎吉作としたのではないでしょうか。
大正14年から15年の将棋月報の記事には坂田三吉の名人就位についての非難の弁に溢れているが、そんな中、関根名人は坂田三吉に対して賛意と祝意の文を書いている。
坂田三吉が贈与した豊島の金龍は、関根名人自筆の駒であり、その事を知った上で坂田三吉は関根名人に敬意を持って金龍を選び贈ったと思われます。
関根名人襲名パーティーに坂田三吉は妻の病を顧みず東京まで祝いに駆けつけており、関根名人は坂田三吉の祝賀会に参列したくとも立場上参加出来ず、祝いの気持ちを「金龍」の駒に込めたのではと思います。
いずれにせよ、本駒の持つ特別な意味を「造」に込めた豊島親子の作品であり、大正、昭和の将棋史の一幕を飾った駒です。
駒台は奥野一香が発明総元祖。
駒台は明治の末年に品川で料理屋を開いていた飯塚力蔵(八段・力造とも書く)が、お雛様にお供えをする時に用いる飾り台をヒントに発案し、最初に豊島太郎吉が製作し販売したと、天狗太郎(山本享介)の将棋庶民史に書かれている。
しかし、大正時代は豊島の発明総元祖と豊島の広告に書かれているが、昭和になってからの奥野の広告では奥野の発明であると広告しており、豊島の広告からは豊島の発明だとは記載されなくなった事から、奥野一香が最初に考案し販売したのでは思われます。
本作品の駒台や駒箱は阪田三吉が贔屓にしている作者だと思われ、本作と同様な黒柿の駒台と駒箱は他にも特別な支援者に贈っており、坂田好みの駒台駒箱なのでしょう。
将棋月報大正15年・豊島の広告
この頃は柾目や虎斑駒と駒台は豊島の発明総元祖と宣伝していますが、昭和の時代に入ると駒台の発明元祖の文句は消え、変わって奥野の広告に駒台は奥野の発明と記されます。
虎斑駒も既に二見氏治(金龍)が用いていた事実から かなり宣伝文句としては無理があると思いますが、ま、戦前の事ですからそんな時代だったのです。