本駒は極めて使用されて堀埋め状態になっておりますが、豊島龍山の作品資料としては新書体で大変に珍しく貴重な駒です、また、作品の特徴が間違いなく数次郎である事を示し、また、駒尻の銘は漆が剥がれておりますが、漆痕の変色痕から読み取れ、「龍山作」「錦鳳」と記してあり、残された駒成型や漆の特徴からも数次郎の作品で間違いないと判断できます。
さて、私の所有する資料を探しても豊島の「錦鳳」についての資料が見当たりません、古の書家にも見当たりません、ネット検索しても何もヒットしませんでした。
存在した人の書であるならば「錦鳳書」と銘するでしょうから、こんな時は、「錦鳳」の意味から推測してみましょう。
[錦](にしき)とは、様々な色糸を用いて織り出された絹織物の総称で、美しい物の意味や尊い物の意味でもあります。
「鳳」(おおとり)とは、「鵬」(おおとり)と同じで音読みで(ほう)と発音します、意味は中国に伝わる伝説上の鳥で、龍と同じ用途で描かれ、時の権力者に従う者の象徴として描かれる空想上の鳥です。
「時の権力者の代理を描いた絹織物」と言う事で、「天皇の代理の御旗」を意味します、即ち「錦旗」です。
明治維新の時に用いられた「錦の御旗」は、天皇の軍(官軍)の旗であり、「錦旗」と呼びます。
錦旗は菊章旗、日旗(赤地の錦に、金色の日像)、月旗(銀色の月像)の三旗で構成され、朝敵討伐の軍将旗として、天皇から官軍の大将に与えられる物です。
下の図は浮田可成が、明治4年から宮内省、太政官正院、内務省等を経て内閣記録局に勤め、緻密な絵図類を多数残した「公文附属の図」の一部で、平成10年「公文録」とともに、国の重要文化財に指定された、明治維新で用いられた「錦の御旗」三旗の絵図です。
菊章旗
月旗
日旗
月旗には龍が描かれています。 日旗には鳳が描かれています。
以上の事から、「錦鳳」とは「錦旗」の三旗の内の「日旗」の事を指す銘である事が理解できます。
実は、この「錦の御旗」は天皇家から勅命を受け天皇から与えられた軍旗ではありません。
「錦の御旗」は、岩倉具視の側近である国学者の玉松操がでっち上げた詐欺事案で、西郷と幼馴染であった大久保利通が自身の囲妾、祇園一力(いちりき)のお勇に用意させた西陣織の木地等の材料を用意させ。
大久保はこれを長州の品川弥二郎に渡して、「錦の御旗」を作らせ、鳥羽・伏見の戦いの時に薩長軍は天皇の詔を賜り「朝敵討伐」を命じられた軍であると偽ったのです。
そもそも「錦の御旗」は薩長軍がでっち上げた旗なのですが、将棋駒界においても「錦旗」とは「売らんかな」の駒師達により、ほぼでっち上げられた書体なのです。
そこで、もう一度、本駒の文字書体を見て下さい。
あれ?あれ?これは奥野一香の「錦旗」書体にそっくりではありませんか!!
奥野流、豊島流の作風の違いは見られども、本駒書体は奥野錦旗を模倣した書体です。
昭和初期から奥野の「錦旗」銘の駒が評判となり大変に良く売れておりました。
しかし、奥野幸次郎は昭和十三年に亡くなってしまい奥野錦旗は途絶えてしまいました。
そこで、豊島は売れる「錦旗」銘の駒を発売する事になり、昭和6年に注文により作成された「後水尾天皇御筆跡の写し」の書体をそのまま用いて「錦旗」としました。
豊島には「金龍」の錦旗の駒がありましたが、「金龍」は「棋洲書」であり、この書体を「錦旗」とするのは詐欺師が詐欺した事になり無理があり、新たに錦旗の書体を創作する必要がありました。
豊島では、大正時代より奥野の外職清龍の作品を「錦龍」の銘で販売しており、既に「錦龍旗」の「月旗」を販売している事から、奥野の錦旗を「錦鳳旗」で「日旗」であると誘導し。
そして、「菊章旗」の駒は、既に存在していた「後水尾天皇御筆跡の写し」を「菊章旗」すれば、「錦旗」の三旗が全て揃います。
当方所有の「錦旗」の駒と「錦鳳」の駒を実測しますと、駒の成型が同じで、同時期に作成された駒であると確認でき、これが、本駒「錦鳳」や「錦旗」開発の理由であると思われます。
豊島の「錦鳳」の字母紙も残らず、駒の存在すら気付かない程、極めて残存数が少ない事から、「錦旗」書体も「錦鳳」書体も数次郎が亡くなる直前の最新書体作品であったと思います。
作成年代からして奥野幸次郎が亡くなった後の作品ですから奥野錦旗ファンを取り込む為、豊島の「錦旗」を販売する商売戦略上の作品であったと思われます。
皮肉にも、奥野幸次郎が死亡した後の僅か1年後、昭和十五年の正月に豊島数次郎も亡くなってしまいました。
駒を作って売る事が仕事とはいえ、この作品を作った時の数次郎の気持を思うと、奥野幸次郎というライバルを失った豊島数次郎から幸次郎へのお悔やみの言葉と思えば気が楽になりますね、、、、、、、、この作品は奥野幸次郎へ奉げた駒だと信じたいと思います。
「錦旗」の駒とは、将棋駒の歴史上本当の「錦旗」の駒とその文字は棋洲書の駒であり、「錦旗」銘の作品は奥野商店が最初に用いた商品名なのです。
いずれにしても、現在「錦旗」書として豊島の「錦旗」を多くの作者が模倣しておりますが、「錦旗」の駒銘の由来は、残された駒や書籍により雄弁に語っており、いかに多くの誤った流言や推測が語られ、多くの駒製作者の駒文字に対する研究不足のままの認識から駒の製作を行い、あげく自己の作品に威厳を加えて広まっているのかご理解いただけるでしょう。
「錦旗の駒とは」関根名人が愛用し連戦連勝の向う処敵無しだった、竹内淇州自身が書した駒であり、その書体は「淇州書」なのです