豊島造・法眼薫斎書    
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豊島造・法眼董斎書
本作は初代豊島龍山40歳の作品と思われます
「豊島龍山」は豊島太郎吉(1862〜1940年)と2代目・豊島数次郎(1904〜1940年)親子二人の名である。
豊島太郎吉は、静岡県の清水出身で有名な次郎長一家の関係者であったようで、十手持ちの娘さんと恋仲となり駆け落ちして東京に出て、牛谷露滴氏の支援を受け、浅草で材木商を営み職人2,30名を擁したようです。
しかし、無類の将棋好きが高じて明治38年(1905)43歳の時に当時の番頭、佐久間喜三郎(当時22歳で現在は四代目佐久間賢之氏により引き継がれ・佐久間木材株式会社は存続し営業しております)に250円で店を売ってしまいます。
当時数次郎はまだ1歳の乳飲み子で相当に貧乏し苦労をしたそうで、8年後の数次郎が9歳の時には母親が亡くなり11歳年上の姉が母親代わりだったそうであります。
豊島太郎吉は趣味の将棋に没頭するあまり店を潰してしまいます、棋士としては六段まで進んだ実力者で、明治の頃に牛谷露滴氏から駒作りの指導を受け、趣味として将棋駒作りを始めたといわれており、散財時(数次郎1歳)には棋士としては小野五平からの免状で四段ですが、当時は棋士として食べていける程の実力ではなかったようです。
43歳で散財してしまった以降は生活の為に本格的に駒を作ります、大正に入り太郎吉が52歳の頃には息子の数次郎(12歳頃と思われる)に駒作りを教え込み現在の駒字の基本となる字母帳を残し、黄楊駒木地に虎斑や根杢等の模様の入った駒を作り「高級美術駒」として販売し、現在の高級駒の基礎を築きました。
数次郎が成長してからの昭和10年頃には住居も別に設け、隠居生活を送っていたようです。
本駒は、まだ材木商を営んでいた頃の太郎吉の作品です。

二重駒箱の外箱に。

天皇家献上 美術将棋之駒
1.本黄楊如輪杢
1.法眼薫斎書
1.彫埋添盛上
明治三十五年元旦
豊島太郎吉造


とあります、
.法眼董斎とは江戸末期に活躍した能書家の松本董斎の事で、豊島の字母に董斎書として良く知られている書体銘ですが、豊島が皇族関係者にのみに贈られた特別な書体である事でも知られております。

幕末の頃、金龍は米庵を得意とし、金龍は評判が高く高級な駒とされていたようで、豊島は金龍の駒.法眼董斎書駒を写した書体を法眼董斎書、真龍の.董斎書駒を写した書体を董斎書とし、豊島は法眼董斎書と董斎書の二種類を残しております。

さて、その法眼董斎の中にあって本作品は、普通に見られる法眼董斎ではなく.法眼薫斎と書体名に「薫」の字を充てております。
豊島の法眼董斎書作品では本作以外に「薫」の字を充てている作品は現在確認しておりません。
川越市富士見町の愛宕神社内「芭蕉の句碑」にも法眼薫斎と刻まれておりますが、松本董斎の残した多くの書に記された落款では董斎と記するのが正しいかと思います。

   熊澤良尊氏の「名駒大鑑」に豊島家の遺品としてトミ未亡人から譲り受けた資料の中に「法眼薫斎書 金龍造」の銘と共に臨書して写したと思われる一遍の紙が残されていたとの事で紹介されております。
その紙には、本作の書体と共に「法眼薫斎書」と、本作と同じ薫の字が用いており、金龍が作った法眼薫斎書の駒の書体を写しました。
本蒐集の中に金龍造・方眼董斎書のコーナーがありますので参照して下さい。

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作者銘に作ではなく「豊島造」とした駒も本作以外では見当りません、「作」ではなく「造」銘は明治期の駒作者に良く見られます。
物作り作者にとって銘は特別なこだわりがあるもので、作者にとって何らかの意味があります。
豊島工房では多くの職人を抱えており、一般的には龍山作を用いますが、豊島作、豊島龍山作も用いられさらに彫銘など何等かの作品に対して意味を持たせておりますが、「豊島造」銘は明治時代から駒製作をしていた太郎吉にとってしごく自然です。
また、作品の作風や用いられている漆そのものが経年による変色が見られる事も画像から判断出来ると思います、さらに駒形も他の豊島作品とはサイズなども異なり、経年による乾燥により黄楊材のヒケも見られます。
外箱の添書きについては太、郎吉本人の筆かどうか専門の鑑定が必要かも知れませんが、豊島太郎吉本人の筆跡と思われます。
本作品は太郎吉40歳の作品で、当時の太郎吉は本業として材木商を営んでおりましたが、商売もそっちのけで将棋棋士と駒製作に夢中であったのであろうと思われ、手間隙を惜しまずに作られた作品の出来からも、当時の駒師としては他の追従を許さない程の美術将棋之駒製作者として評価されていたのでしょう。
材木商失財後に駒製作で生計を立てるに十分な腕前であったろうと思われます。
十数年後、息子の数次郎に駒作りの師匠として指導し、多くの職人達からも信頼され束ねられたのも、太郎吉自身に駒作者としての実力があったればこそ職人達が師匠と仰ぎ従ったのではないでしょうか。

また、「太郎吉は駒を作ってはいない」といわれる某鑑定士もおりますが。熊澤氏の「名駒大鑑」に。
(とみ未亡人の話)昭和8年に嫁いで来たので実際は分からないが「世間では親父が駒を作っているように思っているが、親父は最初から殆んど作らず自分が作っていたんだ。未だ駒づくりを始めて間も無い頃は仲々多くは作れず困ったものだった」と数次郎は言っていたそうである。
更にもう一人の生き証人で、とみ未亡人が嫁ぐ以前から豊島家の職人として駒箱や駒台を造っていた稲田勇は次のように述べている。
「親方(数次郎)は、十才頃から駒づくりを始めたようだから、十五才であれば充分立派な駒が作れたと思う。何せ親方は駒づくりの天才だったからね。親方は駒木地を素手でそのまま持ち彫っていたね。彫も盛上げも早かった。ある時親方は、親父(太郎吉)が昔作った虎斑の駒を研ぎ直したが、親父は案外下手くそだったんだな・・・・って言っていたね。」と記されています。
熊澤氏は直接とみ夫人にも稲田氏にも数度と、直接お会いして記事を書かれ、(その事は直接熊澤氏に確認しました)。
「太郎吉は駒を作ってはいない」との話は、とみ夫人の話を根拠としていますが、逆に稲田氏の証言は太郎吉が駒を作っていた事を証言しており、熊澤氏は太郎吉が駒を作っていないとの認識を否定しております。
戦後、漫才師のリーガル秀才が熱海に住まう、とみ未亡人と娘の美知子さんを尋ねた時のインタビューテープが残っておりますが、そのテープの内容の中には「おじいさん(太郎吉)の事は稲田さんに聞いてください、あの人が一番良く知っている」と何度も話しており、とみ未亡人は23歳の時(昭和8年)に結婚し24歳、26歳、27歳と3人の子をもうけ28歳の時には未亡人となってしまい、実際には最後の仕上げ磨きやサビ漆落し程度の仕事を手伝ったようで、仕事の事は詳しくは知らない様子で、「世間では親父が駒を作っている・・・・・・・親父は最初から殆んど作らず・・・・・・・困ったものだった」との話は一言も語られていません。