豊島作・博道好 (書体銘痕よりの推測      

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豊島作・(書体銘痕の推測)博道好
本駒は入手時より書体銘が削られており、書体・書体銘を含めて謎の多い駒ですが、駒成形は昭和一桁時代の豊島公房の作品であり、盛り上げの特徴は数次郎の手による作品で間違いなと確信出来、公開する事にしました。

本駒の製作時期は、私、収集品の無剣逸人の駒木地成形と同じであり、製作時期は昭和一桁初期の作品で間違いないと思います。
銘は削られておりましたが、その痕跡から「博道好」と私は読み解きました。

但し、博道好の銘はあくまでも私の推測であり、私の命名である事をご理解下さい

何よりも本駒の存在が雄弁に語るのは用いられている書体です。
本駒に用いられている書体は、現在知られている駒書体では思い当たりませんが、中村碁盤店の吉信作「昭玉書」や月山作「行成書」などに雰囲気が酷似しています。
吉信とは中村碁盤店の店主であり昭和18年頃に中村碁盤店の店主が創作した書体であると言い伝えられており、月山氏は戦後の作者で戦後の創作書体です。
本駒は、「昭玉書」や月山氏の「行成書」に良く酷似した書体ですが、本駒草書体から知られた書体作者を特定する事は少々難しく、私には荷が重過ぎます。
本駒は、おそらく草書を得意とする書家の書体、あるいは、中国の書家などを模倣した書体かとも思われますが、昭和初期当時に著名な書家或いは権力者或いは著名人の好んだ書体ではないかと思います。
又、昭和の初期頃には〇〇好と、「好」銘は良く見られ、「高名な人物の好の駒」との銘は、当時の流行りでもあったようで「宗歩好」「阪田好」などが代表例です。
坂田三吉などは、好んで「阪田好」とした書体銘の駒を自身が使用しており、特に特定の書体駒だけに拘った訳ではありません。
本駒は間違いなく昭和一桁年頃の数次郎の作品であり確信出来ますから、この書体作者探しよりも書体銘の「博道好」の「博道」に注目して観る事にしたいと思います。
著名な書家や文化人や権力者を調査してその可能性を調査した処、昭和初期に「中山博道」なる人物が存在します。
中山博道は、当時の、政界、陸海軍部、警察にも影響力のある、高名な武人である「中山博道」の事ではないかと思われ、調査の結果、中山博道が好んだ書体として作成された駒であったのではないかと推測し、本駒の書体銘が意図的に消されている理由も納得できました。
当時の豊島は、渡辺千冬に「無剣逸人」の駒を製作しており、当時の政界や軍人、警察上層部など、かなり上層部の顧客を持っていました。
中山博道は、その当時の渡辺千冬と同等並の権力者でありましたので、博道本人の注文により作成された駒ではないかと思います。
また、本駒の草書風書体は、実に良い雰囲気のある駒書体で、無骨ですが、柔らかさに剛さや、質素、を兼ね備え、日本の武人の心を見事に表現している駒書体だと感じ入るものです。
「最後の武芸者」と呼ばれ、古き日本の武人であった中山博道がいかにも好みそうな書体で、伝統の水無瀬書体から脱却し、駒書体に自己表現を強烈に主張した見事な書体駒だと感じられます。
渡辺千冬の無剣書と同様にして、博道自身による創作駒書体で、ワンメーク作品であったのではないか、と思います。
豊島字母帳に残せなかった注文書体だからこそ、今日までその存在が知られなかったのでしょう。

中山 博道は旧加賀藩祐筆役「中山源之丞」の八男として生を受け、1872年-1958年(昭和33年)に活躍した日本の武道家です。
流派は神伝重信流、神道無念流剣術、神道夢想流杖術。称号は剣道範士、居合術範士、杖術範士。大日本武徳会から史上初めて剣・居・杖の三道で、範士号を授与された人物であり、当時、天皇家の武術指南役をも務め、政界財界に多大な影響力を持ち、「最後の武芸者」と呼ばれ賞される人物です。
中山博道と高野佐三郎は近代剣道の双璧と評されるが、高野が東京高等師範学校に奉職し嘉納治五郎の下で体育的な剣道を打ち立てたのに対し、博道はあくまで古流に依拠し、剣道がスポーツになりつつある状況を危惧しており、実際に当時竹刀剣術を修行した者による自刃の事故も多く、真剣と竹刀での剣術の違いを説いていた。
あくまで実践武術を目指し、陸海軍師範であった博道自身が、陸海軍の軍刀の出来を試す為に、一日に500本もの軍刀を試し切りした、武勇伝も残ります。
当時の博道は天皇家師範、陸海軍師範、警察師範にあり、格式上及び事実上は政界の大臣と同格とされ、当時の実力者の一人として君臨し、終戦後GHQによりA級戦犯容疑者として横須賀拘置所に収監されてしまいました。
博道は厳しい取り調べの数年後、無罪と確定され釈放されましたが、博道自身は戦争責任それも敗戦責任を強く感じていたのでしょう、博道は武道団体の名誉職にありながら剣を捨て、静かに武道界から去り、一切表に出る事はなく謹慎してその責めを負っておりました。
後に(昭和32年)全日本剣道連盟からの剣道十段を授与する旨の申し出がありましたが、これも潔く辞退しました。

博道は明治生まれであり、小学校も出ておらず無学でしたが、幼くして丁稚に出されましたが、努力家で、武術だけでなく文武両道であったようで、書家としてもその遺作が残されており草書を得意としていたようです。
本駒書体の草書も、博道が好みそうな書体であり、その独創性は博道自身の創作駒書体である事を彷彿させます。
本駒書体は武者の書としても納得出来る書体だけに、味わいのある良い書体だと感じます。
「博道好」の銘が消されているのも、戦後の混乱により、A級戦犯として収監された博道に対する駒所有者の「配慮」だったのだろうと思います。


下記の博道の作品を参考にしてください。