真龍造書体不明) 董斎書  

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真龍造 (修栄斎?董斎書)

真龍は金龍に並び江戸後期から明治初期に活躍した駒師で、その存在は竹内棋洲の「将棋慢話」や幸田露伴の「将棋と碁」の中に実在する駒師として紹介されております。
竹内棋洲の「将棋慢話」では、棋洲の父の竹内伊蔵が四段免許の折に十一代宗佳より贈られた謝儀と駒盤の値段が送られた手紙の内容(文久二年(1862年)四月の手紙からの抜粋)。に。
「水無瀬形駒は一組 三分二朱、金龍型一組 三分、董斎型一組 二分二朱、真龍型一組 二分」
「金龍氏は藩中の仁にて内職に御座候、真龍氏は実の処拙宅地主にて御徒方に御座候、右の金龍真龍両氏は駒製作者にて、董斎とは松本董斎とて当時の書家なり」と書されております。
御徒方とは、江戸幕府における臣下ですが最下級の武士階級で幕府からの俸禄は極めて少なく、旗本の二男や三男などが与力などを勤めたが、武士とはいえ、ほぼ無役の浪人です。
当時、宗佳の住所は、下谷の御徒士町です。

金龍の孫である甲賀大雄の私家伝「回天艦長甲賀源吾伝」によれば。
三十五俵三人扶持と薄禄だった為、嘉永五年(1852)、二十六歳の時に、金龍の銘で駒を作っている町井利左衛門(掛川誌稿の中に町井一族、江戸与力の記録が残る)のアルバイトとして駒作りの技法を学び生活の足しとした。
二見氏治は文久三年(1863)格式文談を仰せつかり、この頃、斎田小源多(掛川藩士で掛川誌稿を編纂した人物)より将棋の銘として金龍銘を譲り受け、登録費として三分を払ったとあります。
文久二年と文久三年の違いはありますが、時代感はほぼ一致しております。
真龍は身分こそ御徒方の与力とは言え、最下級の侍の身分であっても家を持つ地主で、駒作り業界に影響ある職権を有していたのでしょう。
上記の資料から、もしかしたら、町井利左衛門とは初代金龍ではなかったかと考えられそうですね。
真龍は十一代名人大橋宗佳の家主であり、駒流通組織にも関わっていたようで、駒の下職も有していたようで、手広く商いをしていたのでしょう。

幸田露伴の「将棋と碁」によれば。
「近き頃の人にては董斎馬の銘を書きしといふ。おのれ之を眼にせしにはあらねど、たしかに董斎の名のありしものを見しと語れる人あり。
普通将棋を好む人の用いるは、金龍、安清などの造れる馬なり」
また、「金龍は真龍より勝れ、真龍は安清よりも勝れたり。」
金龍真龍などの造れるは、玉将の後に銘あり、駒の文字もいと正しくて読み易く、玉は二枚とも必ず玉と書しありて、王とは書さず。」
「安清のは銘なけれど、其文字飄逸の趣ありて、おのずから一家をなせば、一見して知るべし。」
と書されております。


大橋宗佳は幕府から禄を受けていました、が、借家暮らしをする程苦しかったようです。
江戸期から大橋家の当主らによって記された文書類など約500点は、「大橋家文書」と総称され、いまも残っています。
一時は日本将棋連盟が保管していましたが、現在は返却され静岡県在住の井岡さんの手元にあります。井岡さんは、八世名人・九代目大橋宗桂の曾孫の曾孫です。
「曾祖父の四女が、私の祖母です。私は脱サラして、29歳から飲食店を営んでいます。将棋は一切やりません。
大橋家の古文書には借用書が残っていて、家元を続けるために生活に苦しんでいたようです。拝領地を貸しても、お金が足りなかったと伝わっています。
“苦しい生活をしてまで、将棋はやるべきでない”という思いからか、祖母も母も将棋を教えてくれませんでした。
でも、京都にある大橋家の墓には、毎年お参りしています」(井岡さんの言)


松本董仙は、松本薫斎の長子で父親と共に書家であり共に将棋棋士として知られ、名は松本朋雅(本名松本知義)で、弘化二年(1845)生まれ、明治四十一年(1908)以後に没したと推定され、将棋六段まで進んだとされます。
朋雅は、明治三十七年(1904)には日露戦争記念詰将棋十七番を作り、闘病中に作った詰将棋百番と共に明治三十七年から四十年にかけて東京の『二六新聞』に朋雅の作った詰将棋が連載され、日本橋の瀬戸物町に住んでいたとされます


さて、そのような時代背景を思い描き、そのなかで本駒を見てみます。
駒師銘は「真龍造」書体銘は「修栄斎?」、はっきり言って書体名が読めないばかりか意味も解りません。
しかし、本駒書体を後年に豊島が「董斎書」とした書体である事は明白に判断できます。

江戸末期には既に董斎型が存在していた事は、文久二年の宗佳の手紙で明らかで「董斎形」が既に在り、本駒は、その書体の模倣駒であり、真龍の書体として謎の「修栄斎?」としたのかも知れません。
しかし、実は、真龍は本駒の他に同じ「修栄斎?」の書体銘で全く別の書体(後年豊島が董仙書とした)を残しており、書体銘と書体に時間的信憑性がありません。
董仙は董斎の長男で文久二年の年には僅か七歳で、本阿彌光悦の行状記(修栄の書)を模して修栄斎としたのなら、意味は、董斎→董仙と受け取るか、董斎の法名の昇進と受け取れば修栄の意味は理解できます。
しかし、書体銘を「修栄斎」と読んだ事自体に私は自信を持てませんし、模倣駒の為の銘とすれば、この書体銘には意味もありません。

江戸時代には既に「董斎型」が存在し、真龍では「修栄斎?」書体銘で2種類の董斎書、董仙書が存在している事になります。
さらに、豊島の「董仙書」自体が董仙の書体である事にも時代経過に矛盾が生じ疑問が残りますが、明治九年の東京書画人名一覧には三役クラスに市川萬庵の名はありますが、松本董仙は十両クラスとしてランクインされており、日本橋三丁目に住むとされ、皇国名誉書画人名録でやっと前頭下位となっており、明治十四年には大家とされています。
董仙が評価されたのは明治中期以降ですので董仙書体の駒は明治中後期に製作された駒と考えられます


真龍の董仙書 
(倚閑冊)

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修栄斎(董斎書)の謎解きに、少し触れておきましたが真龍造には別書体の修栄斎が存在すると記しましたが、本駒がその別書体の修栄斎です。
本駒は、駒作りの技量も大分向上しており、駒型も薄手となり江戸期の駒とは異なり現代駒に近い駒型です
駒を収めていた駒箱は黒柿孔雀杢の駒箱で入手した時には、エポキシ系接着剤による補修の後が見られ、割れも見られましたので、目立たぬ様補修を致しました。
箱の厚みは天板以外は一分(約3o)と薄手で当時の指物師の作で間違いないと思います。
黒柿の孔雀杢部分を製材すると孔雀杢が波杢に変わったりマグロになったりします、中には白木になったりと製材してみないとどの様な模様になるのか解りません。
ですから、製材した中から孔雀杢部分だけを選び出す事は大量の不良材が発生し、非常に高額となりますが、本駒箱は全面孔雀杢のみで作成されています。
大橋宗佳の水無瀬形の駒箱も同様の孔雀杢の駒箱ですが、本駒箱の方が厳選されており上質です、又仕上げも拭き漆仕上げだと思いますが、本駒はオイル蝋仕上かも知れません。
大橋宗佳の水無瀬形の駒箱とは異なった作者による箱と思われますが、本駒箱は駒箱としては超一級品です。

さて、駒木地を見ますと駒は板目木地が用いられていますが、根や赤目などが混在しており、総じて木目の無い無地の木地が用いられており、上の董斎書よりも薄手です、これは駒木地よりも書体を優先して木地を選別した結果であり、駒木地は無地が最良とされていた江戸駒師伝統の価値観からでしょう。
また、先の修栄斎駒よりも本駒製作時代も後年と年代が進んでいるようです。
本駒は真龍造の駒としても製作技法に進化が見られ、そんな意味からも作者の意気込みを感じます。
本駒は最初から彫埋めとして製作されており、サビ漆で埋めるのではなく、漆だけで数度に塗り固めて製作されているようです。
というのも、研ぎ出した跡に多数のピンホールが見られ、中には更にもう一度漆を塗り研ぎ出した痕跡が残っております。
そもそも、現代では薬研彫一辺倒ですが、この時代にはV形の薬研堀だけでなく凹形の平堀も多用されており、目的に応じて使い分けるのが当たり前の匠の技です。
彫駒だって薬研彫以外の平彫や皿彫だって独特な味わいが出ます、薬研彫は力強い表現も出来ますが、彫埋めや盛り上げの下地には向きません。
漆は厚く塗るには不向きで、漆に砥の粉を混ぜたサビ漆で彫った後を埋めます、サビ漆は密着性も悪く、何よりも引けが大きく仕上がった後数年で凹みが出ます。
それを防ぐには薬研彫ではなく浅い平彫が向いています、更に平彫は漆の滲みも少なく、漆との密着性も高く、引けも少ないのです。
そんな匠の技が銘の堀跡に残されております(単眼の画像では確認しずらいかも知れません)。
薬研彫は量産駒の大量生産に用いられ、発展してきたもので、彫埋めや盛り上げ駒の下彫としては不向きで戦前までは平彫も多く用いられていました。
100年以上も耐え観賞に値する駒の秘密はこんな所にあるのです。

後年豊島龍山が本書体を董仙書として残しています(詳細には異なる点があります)。
  豊島龍山の董仙書 画像クリックで拡大

明治維新後の新政府は明治元年から明治8年にかけて、御徒士町の幕臣屋敷は没収、又は賃貸、又は代替移転と、新政府による新な都市計画により商業の街へと変貌を遂げますが、真龍は御徒方であれば代替移転か賃借地となったようです。しかし、維新後の真龍の詳しい資料は残りません。
大橋宗金は、年月は不明ですが、御徒士町から池ノ端茅町へと転居しており、明治35年に竹内棋洲が池ノ端茅町の宗金宅に訪問した際の様子が記録されており、むさくるしき茅屋であったそうで、1階が駒製造場で2階は6畳2間続きの将棋会所となっていたそうです。
大富豪竹内家の頭領棋洲から見れば「むさくるしき」かも知れませんが、一般庶民の平屋の茅葺屋根が普通の時代からすれば、大層な茅葺屋根の屋敷です。
おそらく、明治初期には大橋家と真龍の関係は解消され、真龍は明治中後期までは駒製作は続けられたのではと思います

明治後期頃には東京の専門駒師が不在となり、多くの庶民や棋士達は天童に伝わる安価な番太郎駒や、大阪の芙蓉などの駒が多いに流行して最盛期を迎えます。
関東の小野五平十二代名人は専ら番太郎駒を愛用していたようで、明治中期になると関西の阪田三吉名誉名人は芙蓉の駒を愛用していました。
また、庶民用の安価な駒では飽き足らない将棋棋士達は、駒を自作して使用する時代になり、金龍、真龍、宗金などの駒を模倣し、彼らの自作書体は模倣から模倣を繰り返し独自の書体が派生し、現在に多くの模擬書体として残します。
例えば、関根名人館に残る牛谷造りの駒や、初代奥野一香のの駒は金龍の市川米案の楷書体駒を参考として作られ、初代豊島龍山は真龍書とし、明治の頃の「董斎形や董仙形や金龍形」の駒を参考にして、将棋棋士達自身によって模倣或いは改良、創作されていったようです。

明治から大正の将棋棋士達が作った駒は、総じて董斎型の模倣書体や金龍の模倣書体である事から、明治期の書体は董斎や董仙の駒が割合安価な駒として一般に広く粋な東京駒として広まったようですが、一部の専門棋士や資産家達は金龍形の駒が用いられたようです。

明治後期になると、豊島龍山や奥野一香などの棋士が専門駒師として頭角を現し、江戸駒の伝統を再興させます。
明治期には伝統の水無瀬形の駒は、関東では大橋宗佳、宗金、関西では増田芙蓉の駒が今日に残り、江戸期には幕府の許可を得ていた者かと思えます。
明治期には小野五平が第一二世名人の時代となり将棋宗家の大橋家は忘れられてゆく時代です、将棋は益々大衆娯楽文化として盛んになり、新聞紙面を賑わし、主だった棋士の収入は新聞記事と棋譜の著作執筆でもあったようで、その権威も伝統か実力主義かそしてその収入源である新聞雑誌収入の争いにより将棋界は分裂して行きます。
そんな歴史の波の中で、真龍が造った駒ではあります、江戸期に存在したであろう「金龍形」や「董斎型」の模倣駒や、先人の模倣書体の駒は、真龍が同書体名を駒に銘する事がマナーとして憚られたのではないかと思います。
水無瀬の写し駒を作る事を固く禁じられ、免許が必要だった時代の、写し模写駒を造る際の最低限度の掟やマナーだったからこそ、真龍がその思いを読めない略字書体銘としたのではないでしょうか。
江戸期において大橋家の駒を作り、自身の銘は入れられず、江戸末期から明治になって真龍の銘を入れる職人は、与力達が集う御徒士町に住っていた「町井利左エ門」が真龍の正体ではないかと、貴方も想像していませんか?

実は書に詳しい友人から。
修の文字は倚(イ、キ):依る、頼る、因むなどの意
栄の文字は閑(カン):防ぐ、仕切り、習熟、大きい、静かなどの意
斎の文字は冊(サク):書きつけ、書簡の意
の文字を略した書体に読めると教えて頂きました、即ち「倚閑冊」と記されているとご指摘を受けました。
冊(サク)の字は、倚閑冊→倚閑の書と同じ意味ですから倚閑の意味を調べた所、人物名ではなさそうですが、唯一手掛かりに、柚木太玄(1726〜1788 眼科医、儒家)が読んだ歌が残されて。
「一株松樹 倚閑亭」と読まれております、由緒ある古い庭園のあずまやにポツンと静かに佇む一本の松の木の様を読んでいます。
かつては大きな屋敷の門の前に、誇るように立つ松の樹であったのに、今では頼りの屋敷はすっかり寂れてしまった、そんな様です。
寂しくも一本の松の様に立っている自身を重ね「倚閑亭」、としたら、大橋宗桂と共に栄え、今では落ちぶれた真龍の心情を表した書体だとも解釈できます。
「キカンサク」→「倚閑の書」と読むも良し、あるいは、倚閑亭と読むも良しかも知れません。

いずれにしても、この書体銘は誰かの書体という意味ではなく、駒製作のシリーズ銘と受け止めた方がよいでしょう。

新に発見される古文書や古い駒が、いつの日にか駒歴史の謎を解き明かしてくれるでしょう。