信華作・清安書(源兵衛清安)   

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信華作・清安書(源兵衛清安)   (78.5 82)

信華は大正から戦前にかけて活躍した女流駒師です、信華は大阪の駒師で芙蓉銘で知られる増田開進堂の増田弥三郎の娘で、二代目豊島龍山こと数次郎に嫁ぎ、その後離縁して実家である大阪には戻らず東京で独立した工房を持ち駒を作りました。

東京と大阪の駒師同士の結婚となると何やら政略結婚とでも疑いたくなるが、お互いの親は将棋を通して高浜偵や坂田三吉など共通の友人も多く、しかも数次郎は関東で人気上昇中の駒師の男前で腕も良く、信華は美人となれば仲人を買って出る人も多かったでしょうし、何よりも大阪の古くから将棋作りの名門増田の娘である信華との結婚は関西と関東の駒作りの融合でもあり、お似合いのカップルだったのでしょう。

信華は豊島に嫁いでからも、おそらく専業主婦に甘んじる事なく、駒職人として仕事を一人前に担っていたでしょう。
もしかしたら、駒工房で他人に任せられない親方の大事な銘書きですが、太郎吉の後を数次郎と信華が担当していたかも知れません。
しかし、結局二人は別居しなければならなくなり、別居後には信華は豊島との直接的関係を保ち(豊島経由で販売)駒作りを東京で続けたようです。
本作は豊島の木地に豊島の細字の清安、俗に言う源兵衛清安の字母から作られており高級駒に用いられた書体です。

本作は、豊島工房の中においても戦力として働いていた信華ですから、離婚後に信華が過ぎし日々の想いを駒に込め、豊島から贈られた最高の木地で作った作品で、当時の信華が持つ実力を十分に発揮された信華作品の中でも傑作作品です。
本作の清安書体は豊島の細字の清安(源兵衛清安)字母から作られた作品ですので、豊島作の細字の清安・花押の駒と比べて下さい、信華らしい作風が良く表れた作品です。
信華の作品は数次郎の手による作品が多いと言う鑑定家もおりますが、それは極めて稀な事でそのほとんどの作品は信華の手による作品です
某鑑定家によれば信華本人による作品はなく信華の駒は総て龍山が作った作品であり数次郎が死亡した後は静山が作った、と主張してますが全くの根拠もない妄想であり、根本的に鑑識眼が誤っており多くの信華の作品は明らかに数次郎の作品ではありません。

本駒清安書体ですが、この書体を源兵衛清安と駒銘に記したのは信華が一番最初です。
名古屋徳川美術館に納められている駒に源兵衛清安の駒があると言われておりますが、そのような確証は何もなく、納められている駒の中に源兵衛清安の銘が入った駒はありません。
美術館研究員に問い合わせましたが、「源兵衛清安と伝えられている駒は存在しておりません」との答えでした。
しかし、源兵衛清安の名を持つ者による将棋駒は名古屋徳川美術館に納められていませんが、源氏の兵衛であった清安が作った駒は名古屋徳川美術館に納められていました。

某鑑定家は、三井家・大河内家にその銘の清安が存在したと主張しますが誰かに数十年ほど前に聞いた話だそうで、何の確証のある話ではありません彼自身も実際に見た事は一度もないそうです。
さらに、大内家の駒は現在スイスの銀行に借金のカタとしてあり持ち出す事が出来ないとの話まで言い出し支離滅裂な説を主張してます。

源兵衛清安の書体名は信華が最初に豊島の細字の清安を源兵衛清安と命名したもので、命名した書体名の由来については豊島のコーナの清安の作品を読んで下さい。
細字の清安(源兵衛清安)、の作品書体は、増田芙蓉家と豊島家の結婚に際し増田家がもたらした書体です。

残された多くの駒に用いられた駒形は増田開運堂で用いられる駒形ではありません。清安書の作品は島黄楊を用いた豊島の木地で作られています。
信華の作品は金龍が最も多く、作品の多くの駒は小形で、彫埋、彫、盛り上げなど見られ、木地は薩摩黄楊などが多く残されています。
安清書作品には普通の大きさの駒型が見られ、安清書体としては豊島の中期の書体で島黄楊木地も見られる。
実見しておりませんが、信華の董仙書の彫埋駒も残されていると聞いています。
清安書体は豊島の前期の細字の清安(源兵衛清安書体)を用いており、盛上駒で高級島黄楊が使われ、豊島工房の木地が用いられ、明らかに豊島工房が関与しています。




信華作 安清書

本作の信華銘の「作」は豊島に嫁いでいる時の銘ではないかといわれ、彫駒や堀埋駒に多く見られる銘書体です。
この銘の作品の多くは豊島の職人による作ともいわれ、あまり出来の良い作品は多く残されていませんが、同じ工房作品ですので、中には数次郎が作った可能性のある駒が含まれているかもしれません。
本作はこの書体の信華作銘にしては珍しい盛上げであり、漆の盛り上げは一見、数次郎を思わせる盛り上げで、実は某鑑定家の電話連絡で、「この作品は数次郎の作です」と薦められオークションで落札した作品です。
しかし、手元に届いて観ますと本作は数次郎の手による盛り上げではなく、盛り上げの調子から信華の作であると判断できます。
さらに面白い事に本作の飛車2枚は安清書ではなく金龍書の書体です、流通段階で間違えたのか製作段階で間違えたのかは解りませんが、同じ木地、同じタッチで作られています。
豊島工房でこの様な間違いをおこすとは考えられませんが、下の金龍書と同じ薩摩黄楊木地及び整形で豊島の廉価駒用木地ですので、この作品は信華が豊島工房で仕事をしていた頃に作った作品ではないかと思います。
単純に銘の作の字で製作時期を決め付けるのは間違いかも知れませんが、本駒作は豊島工房時代の「作」書体かと思います。
それにしても、この様な作品を見ますと、信華は多少、大雑把な性格で「いい女」だったと想像したくなりますね。
駒師としても信華はこの様な作品を作れるだけの実力を有しており、また、信華作品は個性的でもあります。
当然ですが、本作の字母は豊島工房の中期の字母紙が用いられております。

信華作 金龍書

信華の金龍書は豊島龍山の金龍書とは少し異なった字母を用いており、木地は薩摩黄楊で廉価版の木地の駒です。
木地や駒形は豊島製ではなく別の木地師によって整形された物を用いています。偶然かもしれませんが木村と同じ整形でした。
豊島の廉価版の駒木地は外職の木地屋から仕入れていたようです。
もちろん大阪の増田開進堂で用いられる木地駒形ではありません。