増田信華作・源兵衛清安・花押   

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増田信華作・源兵衛清安・花押 

本作は昭和12年頃の豊島工房で作られた駒木地によって作られています。
豊島で紹介した、昭和12年頃の龍山作・清安書と同じ木地です、当時の駒としては大型の木地になります。
駒木地と書体のバランスが他の信華作品と違う事を画像からも確認できると思います。

この作品は、信華作品の中でも特に出来が良く、まるで数次郎が作った駒に見える程の出来栄えです。
しかし、数次郎が盛り上げた特徴は見られませんので信華の作品に間違いありませんが普通に見られる信華の力強さがありません。
非常に丁寧に盛り上げられていますが線が細く何故かこの作品からは者悲しさが伝わってきます。
何故なのでしょう、駒の大きさと書体のバランスが悪いからでしょうか

それは、この作品は先の龍山作清安(三代目安清書・坂田好)でも解説しましたが、最初に信華が清安を源兵衛清安と銘を変えて、増田信華として生きてゆく事を決心した駒であろうと思います。
本駒に描かれた花押に注目して下さい、これは新婚当時と同じ花押を描いています、新婚当時の数次郎の作品である清安・花押の花押と同じ形です。
さらに、作者銘には「増田信華」と記されています、豊島の信華ではなく結婚前の増田信華と名乗っています、この駒を受け取った時の太郎吉や数次郎は何と感じたのでしょうか。
数次郎の事は忘れて増田信華として一人で生きてゆく事を決心したと強烈に感じた事でしょう、しかも源氏の兵衛の清安の末裔の一員として生きて行きますとの主旨を明確に表したのではないでしょうか。
私にはそんな信華の想いがこの駒から感じるのです。
又、本駒製作時期と同時期に数次郎も源兵衛清安・花押の駒を作製していた事が判明しました(豊島のコナーに掲載)。
数次郎は、本書体の駒は新婚当時に特別な駒として清安・花押の駒を製作しましたが、同書体は信華の書体として同書体の清安駒は作成しなかったのですが、二人が示し合わせた様に同時期に源兵衛清安・花押の駒を作ったのです、信華が先か数次郎が先かまでは判断できませんが、同時期に製作した事は間違いありません。
駒製作を通じて二人の無言の会話が聞こえてくる様な気がします。       「さようなら・・・・・・・最愛・・・・忘・・・・」と

本駒と同時期に作成した数次郎の源兵衛清安・花押


さて、信華の源兵衛清安・花押の花押は数種類用いており、古い安清が残した駒の花押を流用しています、明らかに「源兵衛清安」は安清一族の総称です。
源兵衛とは武家社会における百官名で、朝廷や幕府から正式に任官されていない者が用いる官位で、自任した疑似官位や仮名です。
例えば、増田信華なら増田源兵衛信華と名のる事が出来ます、そして代々その家の家名を継ぐ者は、源兵衛清安と家名を継ぐ習慣が定着していましたので、何代目の清安なのか判別する為に花押で代や個人を表したり、増田源兵衛清安信華と更に名を加えたります。
疑似官位や仮名を廃止して、氏と名だけを登記する事に改めたのは明治になってからなのです。
蒐集した中将棋の駒の安清の花押と似た花押もあります、安清の花押を知りえた範囲での花押の一覧がありますので確認してみて下さい。
増田家は江戸期の安清・清安一族の末裔であった事を密かに世に残したかったのでしょう。

    

数次郎は仕事が出来るイケメンで、信華は絶世の美女だったそうです、親同士が決めた相手とは言え、相思相愛の仲になったであったろうことは想像に難しくありません。しかし、幸せは長く続かず数年後、二人の仲は裂かれてしまいます。

大阪毎日新聞1935年11月13日(昭和10年)の記事に、高田農商銀行襲撃事件に関連し、共産主義運動(アナーキズム)の犯人に百五十円貸した大阪の増田虎造が参考人として検挙されたとの記事があります、信華の弟の増田虎造と同一人物であったと私は思います。
共産主義者(アナーキスト)と疑われる事は世間から抹消されるに等しい事であった時代の事です。また徳川武家集団末裔の動向は未だに日本国家維持にとっては監視対象とされていたでしょう。
明治維新後は皇国日本を脅かす唯一の存在であった徳川幕府忠臣団の動きは常に監視され、末裔達は出生を隠し生活しなければなりませんでした。
当時の政界や特攻警察の大物を顧客に持つ豊島の耳にも事前に情報が入り、立場上にも数次郎は別離せざるを得ない状況となったのではないでしょうか。
それは、信華が豊島家を出て別居後にも信華に対して、豊島との直接的関係を秘密理に保ち、太郎吉は信華に駒木地を提供し駒製作を続けさせ、豊島経由で駒の販売をして信華を援助していた事からも推測できます。
即ち、信華と数次郎との関係は続いていたのでしょう、しかし、二人の間に子供は出来ず、結局、数次郎は後妻を受け入れる事になったのではないでしょうか。
離別後すぐに信華は実家の大阪に帰る事もなく、東京で一人駒作りを続けたのも、そんな事情であったと私は推測します。
また、再婚相手のトミさんには信華の事は極秘にされ、トミさんとの再婚後にも信華への援助が続けられた事も秘密されていたので、戦後になりマスコミの取材を受けるまで後妻のトミさんは知らなかったのです。(阪田三吉は知っていたでしょう)

本駒作成後、信華は藤好信華作の駒を作っています、藤好さんと結婚したのか、単に藤の花が好きなのか解りません。
一応、信華はその後女優となったとの情報を信じて、藤好氏名の映画舞台関係者を調べましたら、舞台照明関係者に1名だけ藤好名の者を見つける事が出来ました、そこで、東京都内の藤好名の電話番号には30名ほどが掲載されておりましたので、全て電話をして確認しましたが、良い情報は得られませんでした。


私が予想する、安清のルーツ
初代安清
初代安清は菊折枝蒔絵の将棋駒の作者である戸川安清で、1805年従五位下大隅守・目付に叙任(のち播磨守)。
1836年より長崎奉行。天保13年1842年勘定奉行。1845年より西の丸留守居役。1860年より留守居役など要職を歴任。
1861年公武合体のため江戸に居る将軍・徳川家茂のもとへ降嫁する和宮(篤姫)の警護役を務め、この時「清定」を作ったのでは。
安清は篆書・隷書を得意とする書の達人として知られており、家茂の師範を務め、安清失禁事件は将軍家茂の水遊びとして今日の逸話に残ります。
1866年12月に剃髪隠居し、子の中務少輔が早世しているため跡目は養子(孫)の八百次郎に継がせた。
大政奉還を経た1868年3月4日没。墓は品川区上大崎の最上寺にある。
あるいは戸川安清の親族あるいは関係者の一人ではないかと思われます。

二代目安清

二代目安清は戸川八百次郎を当主とした安清の子孫達親族で、八百次郎は若くして諸太夫となり、中小姓・目付を歴任。布衣の着用も許され花押も記す事ができ、父が早死したため跡目を継いで、安清一派の総帥として支配していたと思われます。
大政奉還により激動の時代となり、徳川旗本家臣団は、「総員三万三千四百有余家」(明治元年調査)、家族子弟を含めて「三十万人〜四十万人」あまりの者が大政奉還により、幕臣達に朝臣化を認める新政府の対応(朝臣)に、応じた者は旧領安堵や新政府に官任されますが、徳川臣を選択した者は禄を失い知行地も職も全て失いました。
戸川一族の一部は分派し天童織田藩など各地の藩に散り召し抱えられたようです。

戸川八百次郎は大政奉還後にも徳川臣を選択し御供願いを提出、徳川慶喜と共に駿府へ旗本一族(一万二千名)と共に同行したと静岡市記の記録に残り、実際に(駿府雛具屋製の幕末〜明治の古い雛具の駒に安清の駒が残りその痕跡を残します)駒の製作を生活の糧としたようですが同行一族の生活は困窮し、開拓農民となる者や脅間と呼ばれるヤクザを生業とする者も続出しました、戸川一族の戸川晩呑は勝海舟から五十両の借金をし知行地であった倉敷に戻り窪屋郡長になった記録も発見できましたが、一族の長である戸川八百次郎の痕跡もここで途絶えその後の追跡は不可能となりました。
多くの戸川一族は親戚縁者を頼りに諸国に散ってしまったようです。
おそらく、多くの旗本幕臣は「朝臣願い」を提出し認可された者は約五千名程に上りますので、戸川一族も京都に赴き皇臣を願い出たと思われますが認められなかったのでしょう、認められない幕臣旗本達は関西方面などに定住しますが、元幕臣旗本は多くの迫害を受け賤しめられる状況が広がっていましたので、当時始まった各藩個別の戸籍制度や創始改名制度を利用して改名してしまったようです。現代氏名から過去の祖先を調べる際に明治までの祖先は比較的簡単に調査できますが、その先が突如不明となる多くの例で見られますが、戸川八百次郎もその一つの例ではないでしょうか。

三代目安清
三代目安清は改名し増田を名乗り大阪に定住した戸川一族(八百次郎の子?)、駒師集団「芙蓉」の総帥、増田弥三郎。
「芙蓉」の名は江戸幕府において「芙蓉の間」に上がれる身分であった事を暗示しています。
今日に残る安清の駒には花押や安清筆と作や造ではなく作者銘に筆の文字を持って作者としました。
増田弥三郎も同様に花押と筆の文字をもって作者とし、安清銘の駒様式を用いていました。
駒書体も水無瀬駒から発展した駒書体で、駒成型も伝統的な厚手で、残された江戸期安清駒と同様の傾向が見られ、残された駒には明らかにその関係性が見られます。

四代目安清
四代目安清は増田信華と増田寅蔵となります。
共産主義運動(アナーキズム)の犯人に百五十円貸した大阪の増田虎造が参考人として検挙されたとの報道記事は、現代では少々やりすぎで、まるで犯人であるがごとき記事です。
しかし、維新後60年経ても徳川家の武士集団である旗本3万家(40万名)の動向は当時の日本国家にとってはまだまだ監視対象のはずで、皇臣と認められない支配層の旗本家ならば尚更監視対象とされていたのでしょう。
増田家には公表したくても公にできないこんな祖先の事情があったからではないでしょうか。

以上の事からも源兵衛清安とは「源氏の兵衛の清安、安清」達ではないかと私は推測しています。
また、豊臣「五奉行」の一人増田長盛は大阪夏の陣で死去し、増田長盛の長男・増田盛次は大阪夏の陣で死去しますが、次男・増田長勝は叔父の増田長俊の養子となり尾張徳川家に務め子孫は現存するそうで三男・増田新兵衛は増田本家の家督を継ぐとあり、次男三男は子孫が続くとされておりますので末裔は徳川家旗本幕臣として家は継いでいったようです。
同じ旗本同士の戸川家は増田家との間に婚姻関係があり親戚の増田の苗字に改名したのかも知れませんね。

以上が現在私が調べた範疇の史実と、残され蒐集した駒から導き出した憶測ですが、決定的な駒作成を証した古文書などは発見されていません。

信華作 清安書

本作は一般に高級駒として販売していた信華の後期の作品です。
上の源兵衛清安と駒の大きさの違いや作風を比較するには丁度よいかと思います。
この駒には当時駒をまとめて包む紙が残されておりました。
紙包の一部分に太郎吉が書いたメモ部分が残っていました、信華と豊島太郎吉の関係を示す物です。