重次作・永澤好 (後水尾天皇御筆跡写)

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重次は小林重次(しげじ)といい、大正から昭和初期にかけて活躍した駒師です。
熊澤氏が八代目駒権師にお会いして聞いた話では、八代目駒権師の駒作りの師匠は小林重次であったと赤松氏自身が話していたそうです。八代目駒権(赤松元一)は先代の七代目駒権(国島権次郎)に丁稚として勤めていた、といわれており、七代目駒権に勤める前に重次の指導を受けたかも知れません。少なくとも本作の重次の駒を見る限り、八代目駒権が深堀りの大阪彫を得意としたのは重次の影響であったのは間違いないでしょう。
但し、赤松元一は正式に七代目駒権から八代目を譲られてはおらず、勝手に八代目駒権を名乗ったと言われております。

高濱禎の書き残した「萬おぼえ帳」の所有駒目録の中に大正5年11月始「御水尾天皇御宸筆写 大阪国島権次郎模 大正元年頃製品」と記録され、又「御水尾天皇御宸筆写 京都の重次にて 黄楊柾目彫駒二組 大正7年12月 大阪宮崎より」と記録されており、駒権と重次は同時代に「御水尾天皇御宸筆写」の駒を作っており、七代目駒権と重次は同門か何らかの関係にあったのではと思われます。
重次は関西の駒師ですが、京都の駒師で、大阪宮崎とは「大阪市東 区北久宝寺町三丁目丼池筋北下ル」の宮崎碁盤店(株式会社宮崎碁盤店)と思われ重次は宮崎碁盤店を通じて販売していたようです。
大正七年頃の高濱禎は重次の駒を五組程を所有しており、関東の豊島と関西の重次が大変気に入っていたようです。

本作の「永澤好」の銘は昭和初期から戦前に専門棋士として、戦後は観戦記者(仏法僧)として活躍した永沢勝雄(追贈八段)で、現役当時の永沢氏の注文に応じて製作され「永澤好」とした駒ではないかと思われ、昭和十二年の四段昇段の祝いか、遅くとも昭和二十一年の引退の記念に製作された駒ではないかと思います。
本駒の書体は、王将の裏面に「後水尾天皇御筆跡の写」と彫られております。「後水尾天皇御宸筆写」ではありませんが、 後水尾天皇御筆跡の写」を「後水尾天皇御宸筆写」と高浜禎が丁寧に表現したでけで、同じ意味であり特段の意味の違いはありません。
既に 「後水尾天皇御筆跡の写」の駒は、明治期には大橋宗金により市中に出回っておりましたので特別に秘密でも何でもない駒書体です。
ですから戦前には「後水尾天皇御宸筆写」が一般に「錦旗」だとは認識されておらず、実際に戦前の駒は、豊島錦旗よりも奥野錦旗の駒の方が数多く残されており、当時は豊島錦旗は生産数されておらず、戦前は奥野錦旗が「錦旗」と認識されていました。
豊島の錦旗は奥野一香が死亡後に開発された書体で、奥野の二番煎じなのです。豊島龍山も一年後に亡くなり、戦前の駒書体を引き継ぐ駒師は大戦を境に亡くなり、東京駒の歴史は幕を閉じましたが、豊島の残した字母紙を頼りに終戦後、静山や潜龍や宮松や竹風が好んで製作し、山本亨介が宮松勘太郎から聞いた話を記事にした事により「豊島錦旗」が、天皇の御旗「錦旗」として広く世間に広まったのです。
師匠から駒歴史を学べず、手に入れた豊島字母紙のみから駒作成する戦後の駒作者が、話した結果であり、大橋家に残された伝後水尾天皇御宸筆写の駒は水無瀬駒を写した水無瀬書体の駒でした。
豊島は昭和6年に「後水尾天皇御真筆謹写」を製作しております。近年、宸筆錦旗と称して「宸筆錦旗」銘の駒が流行して出回っておりますが、豊島錦旗の書体と昭和6年の「後水尾天皇御真筆謹写」は全く同じ書体で、奥野一香が亡くなったので「錦旗」銘を付け売り出そうとしたのです。
本駒は、重次が、明治期の大橋宗金が残した「後水尾天皇御筆跡の写」を直接参考にして、その書体を彫駒として写し取った作品で、その結果として書としての表現に適した深堀となったようです。

本作の彫は画像で見るよりも現物の方が見応えがあります、用いられている木地は薩摩黄楊で、島黄楊よりも堅く掘りずらい木地なのです、当時から深彫を始めた重次は彫駒師として第一級の腕前であったと確信します。
八代目駒権が師と仰いだ重次の作品は、豊島や奥野と並び大正と昭和初期の戦前を代表する名駒師のひとりで、彫駒を目指す人なら是非重次の作品を求め参考として下さい。

八代目駒権が師匠と仰いだ駒です、大橋宗金の後水尾天皇御筆跡の写の駒と見比べて下さい、彫駒の表現に限界はありません。



重次作・無名の後水尾天皇御筆跡写 大正十二年作

重次は「後水尾天皇御筆跡写し」の駒を大正時代には既に作っており、上画像の駒は大正十二年に製作された駒で、紫檀製の古駒箱の裏に「大正十二年 重次作」と揮毫されていました。
駒銘は無名ですが、書体は「後水尾天皇御筆跡の写」で、大正時代から同じ字母によって製作していた事が分かります。
重次は王将の裏面に「後水尾天皇御筆跡の写」を記する事はあっても「錦旗」とした駒は、今まで、聞いた事も見た事もありません。
大正の頃、豊島の「後水尾天皇御宸筆写」の駒を高浜提が重次に渡し、その駒を重次が彫ったとの説もあり、それほど豊島の作と重次の作は良く似ていますが、字母となる書体は既に大橋宗金が明治期に市中に広めています、大正元年には国島権次郎も作っています。
豊島も昭和6年に大橋宗金の「後水尾天皇御筆跡」の駒を参考に作成しております。この点については豊島の錦旗をご覧下さい。「と金」「歩兵」などの違いは「錦旗」そのものが豊島の感性に基ずく創作なのです。

大正の頃から重次の作品には深彫の傾向が見られ、重次の駒に対する想いが伝わってきます。
この使い込まれた重次の彫駒は飴色に染まり、表面は盤に磨かれ独特な輝きを見せます、この様な味のある駒に育つには薩摩黄楊でなければ育ちません、古より将棋の駒木地は薩摩黄楊が最上とされるのも理解できます。
薩摩黄楊は江戸期は薩摩藩の戦略物資であり、大政奉還後にやっと御禁制が解かれ関西を中心に出回りました。
重次の駒木地は全て厳選された薩摩黄楊の柾目木地を用いており、当時の彫駒としては最高級品であったと思われます。

重次作 大阪彫 大正初期作

駒作りの初期には大阪彫の作者として腕を磨いたようで、駒形から大正初期の頃の作品と思われます。
重次が大阪彫で下積時代を積んだ中彫ランクの作品だと思われます。
芙蓉の中彫ランクの木地は薩摩黄楊の板目木地ですが、この重次は柾目木地を用いております。
また、高浜禎の駒目録に、大正七年頃の象牙製安清書の重次の彫駒の所有記録があり、そんな事から、重次は根付師から駒師になったともいわれています。
大正から戦前の略彫の大阪彫には、安清、芙蓉、駒権、重次、一乕号などの銘駒が残されています。 芙蓉や駒権は神戸大喜からも販売していました。