塩見作 坂田好      

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塩見作 坂田好 子祥刻

阪田に「馬」の字を教えた書家・中村眉山が書いた駒字と言われ、中村眉山は、明治18年(1879)生〜昭和30年(1955)没青森県八戸に生まれ、岡部公以前の岸和田城主中村一氏の子孫で、名は正真、字は信甫、号を眉山・黄眉山樵などと称し、年少にて上京し、初め書を柳田正齋の門人河野梅田に学び、次いで吉田晩稼に師事した。関西を主な活動の場とし、書道団体「書道作振会」を結成した。

大正6年朝日新聞社主催の紳士将棋大会の優勝者(大阪電光社社長可能楢太郎氏)に優勝記念に贈られた駒として知られ、塩見吉之助作の「塩見作 坂田持」は熊澤良尊氏の(名駒大鑑)にも紹介されております。又、日本将棋連盟関西将棋会館の「将棋博物館」所蔵である大正6年作の「大正丁巳年 塩見吉浦作 坂田好」の駒、そして堺市の阪田三吉記念室保管(木村朝子氏所蔵)の三組の駒が展示され塩見吉之助の作とされる「坂田好」はあまりにも有名です。

明治から大正の時代は専門駒師として生計を立てられる駒師は少なく、塩見も専門駒師ではなく趣味程度で駒製作をしていた新聞社の関係者で書家でもありますので、中村眉山とは親交があったと思います。
特に本作の塩見作の銘は後年になって銘が彫られた物と思われ、何らかの理由で塩見作としたのではないと思われます。
作者の塩見については疑問が多く、坂田好の駒の真の作者である事に疑問があります、おそらく、「坂田好」の駒は塩見以外の別の作者により製作された駒を、朝日新聞などの都合により塩見銘を入れて賞品としたのではないか、と思える程作者については疑問の多い駒です。
いずれにせよ、後年に銘を削り塩見作と入れ直しており、何か隠された事情があったのではと思われます。
本駒は王将の駒尻に横書きの彫りで「塩見作」とあり、もう一方の駒尻には盛り上げで「坂田好」に金色漆塗りで側面に「己未初夏 子祥刻」と彫られている。

己未は大正八年であり、大正八年初夏の作品と思われます。
駒形や面取りの特徴は極めて個性的で、かつて同様の駒型を用いる駒師は見た事がありません。
書体も表に篆書を裏には行書の筋彫りと実にユニークであり彫り方も薬研彫りと言われる逆三角形ではなく象嵌などに用いられる四角形のうす肉彫で彫られており、しかもその技術は稚拙で、とても玄人の彫とは思えません。
また、本駒の裏筋彫りの内側は漆によって塗られていましたが、長年の使用で薄くなっており、用いられている漆も塩田が他に用いている駒と同様に個性的な色合いで、同じ漆であり、あまり将棋駒に用いられる漆とは違う様に思えます。
作者「塩見」は朝日新聞社の記事では塩見吉之助と伝えられており、吉浦、子祥の三名の名前は、何かの事情が有ったかも知れないが資料が無く不明です。

当時の新聞記事には。

坂田好み、木地黄楊玉将にて縦一寸一分横一寸、文字表篆書體篆彫、裏成駒行書體筋彫、本社塩見吉之助氏執刀
(阪田好み駒は普通よりも大にして鞘稍薄し、文字は古篆字を蒐めて其の中より選み更に新意を加ふ)
と書かれております。
駒箱は記念駒に添えて贈られた駒箱と同じサイズであり、記念駒用駒箱と同じ田中製作で作られた駒箱と思われ、本箱は漆塗り仕上げで最近の駒箱に比べかなり大型です。
駒袋は正絹裏地付き生地で時代による劣化が見られますが高級感ある駒袋です。

塩見の作品は「阪田好」「阪田持」以外には確認されておらず、「阪田好」の駒も本作を含め5,6組程度が残存すると思われ非常に貴重な作品であり、阪田三吉に縁る駒としてばかりではなく、中村眉山による駒字は個性的であり既に芸術作品と呼ぶにふさわしい作品ですが、後年、奥野一香により日下部鳴鶴の作品と主張されています。
奥野一香のコーナーに鳴鶴の駒がありますのでご覧ください。



作者塩見などの情報があれば是非教えていただきたいと思います。