初代竹風昇龍書  白檀            
     
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黄楊の櫛木地屋に生まれ、大竹治五郎は昭和3年14歳の頃、奥野の外注職人であった松尾昇龍氏に駒木地を届けに行き、見よう見真似で駒作りを覚えたそうです。
戦前から、大竹師は奥野の外注職などの経験もなく、奥野に駒木地を卸した事もなく、全くの独学で駒作りをしたそうです。

昭和18年頃第二次大戦の難をのがれる為に、実家である新潟県三条市に疎開し根を下ろす事になります。
戦後は卸業者からの頼まれ仕事として駒作りをしており、一乕の銘で製作していたのは戦後になって大阪の駒卸業者からの依頼により、薩摩黄楊を支給されて彫り又は彫駒を中心に製作したようで、大阪芙蓉の略字駒なども手掛けたようです。

また大竹治五郎は、中村碁盤店の潜龍ブランド銘で、金井静山(豊島とみの下職)、岩崎隆真(木村の下職)、松尾昇竜(奥野の下職)と共に駒作をしました。
この時代に彼らと技を競い合い、一旦完全に失われた東京駒の伝統再興に尽力した職人ですが、金井静山が加入するまでは松尾昇竜の指導を受け、後年には金井静山をも凌ぐ程の腕を振るいましたが、残念ながら2006年享年92歳で永眠されました。

もし、大竹治五郎が新潟に疎開せず、東京で駒作りをしていたら今の駒作り業界は違っていたかも知れません。
ご子息の日出男氏(昭和19年生)と妹の涼風により匠の技は引き継がれています。
竹風作品は御蔵島黄楊の原木から将棋駒になるまで総てを手掛ける現在では数少ない駒工房ですが、残念ながら駒文字の継承を受けていませんでした。

本作品は潜龍の下職であった松尾昇龍氏と共に駒作りしていた当時の駒と思われ、その面取りなどは松尾昇龍作品を彷彿とさせる作風です。
本作品の書体は松尾氏(昇龍斎)が淇洲書を写した書体を、松尾氏から譲られた書体で本書体名は昇龍書ですが(棋洲書写し)です。
しばしば大竹氏は奥野錦旗と昇龍書と勘違いして用いられた事がありますが、師匠を持たず独学で駒を作っていた為、奥野錦旗と松尾の奥野錦旗と見分けがつかず、又、中村碁盤店時代に松尾の奥野錦旗を新龍書として作らされ、書籍などで奥野錦旗は淇洲書と似ていると書かれ、昇龍書(棋洲書)と松尾錦旗と奥野錦旗とを混同してしまった結果だと思います。
現在は、初代竹風師は松尾氏の淇洲書を昇竜書とし、二代目竹風師は奥野錦旗を昇竜書としています。
中村碁盤店の潜龍ブランドでは大竹師はこの昇龍書体を「眞玉」として製作しました。眞玉は中村碁盤店店主の習字の師匠の名との事ですが、書体字母は本作と同じ昇龍書もあり奥野錦旗似の「昭玉」もありで、眞玉や昭玉の書体とは中村碁盤店の商品名で、書体そのものがバラバラで統一していません。
中村碁盤店では、後年豊島系である静山の書体と書体名を優先し、奥野や松尾昇竜の書体は別名を付けさせたようです、中村碁盤店のこのような販売の方針により書体名はこの頃から混同してしまいました。
大竹竹風氏はこの時期に松尾氏から棋洲書や奥野錦旗や松尾錦旗の書体字母を譲られ、書体の由来を知らず「昇竜書」としたと思います。
大竹氏は奥野商店とは何の関係も関わりもありませんでしたので、松尾氏を通じて奥野系作品を作成しましたが、むしろ静山氏との出会いから豊島系字母を用いており大竹氏は奥野系と世に言われますが、実際には系統を踏襲しておらず独立独歩の駒師です。
この書体は「棋洲書」の模倣書体です。

二代目竹風氏によれば本駒書体の昇龍書(棋洲書)は初代(治五郎)氏しか作っておらず、二代目竹風氏は本駒書体の昇龍書(棋洲書)の駒は一組も作っていないとの事です。
近年販売している本駒書体の昇龍書(棋洲書)作品は、初代竹風氏(治五郎)が作って残した在庫の駒で、銘だけ二代目竹風氏が銘を入れた作品で、昇龍書体(棋洲書)作品は総て初代竹風氏の手による作品との事です。
二代目大竹竹風氏は今後も淇洲書の昇龍書は作らず、奥野錦旗書体を昇龍書として作り続けるとの事で、二代目竹風氏は先代から奥野錦旗の書体を松尾氏から頂いた書体と伝えられたので、奥野錦旗を昇龍書としていると話しています。
しかし松尾氏の用いていた奥野錦旗書体と奥野幸次郎の奥野錦旗は書体が少し違いますが、大竹氏の作品は少しずつ修正して、現在ではすっかり奥野錦旗書体が昇竜書となっています。
実際に松尾昇竜から譲られた棋洲写しの昇竜書は現在製作されていませんが、棋洲写しの昇竜書を棋洲書としております。
本物の棋洲書と昇竜が写した書体は異なり、二代目大竹竹風氏による棋洲書は、昇竜書(棋洲書写)です。


   初代竹風作・金龍書 (戦後の天童楷書体のルーツ?)                  


本作品は大竹治五郎師の第二次大戦前後の作品です。
ザックリとした彫ですが非常に手馴れた彫で、既にその技量は相当数の駒を作っていたと思われます。
さて、書体名は金龍書ですが??、何か変ですね。
書体は明らかに金龍書(豊島金龍書)ではありません、本駒書体は中村碁盤店の眞玉あるいは奥野錦旗にも少々似ています。
しかし、この書体は、戦後、天童の職人、(香月、天一、一平、武山、越山)により模倣され、現在は天童楷書体とよばれる事になりますが、初代竹風氏のこの作品が最も古いと思われます。
戦前の当時は、天童楷書体としては、奥野一香から武内七三郎に伝えた書体が、天童で最も多く作られた彫り駒の書体で天童将棋駒製造信用購買販売組合の組合員によって作られました。
戦前には、この書体での天童の彫り駒も大竹氏の作品もありません、明らかに別の駒の模倣書体です。
本作品は、奥野錦旗の字母から作った作品でもなく、木村の玉舟書の写し駒でもなく、おそらく金龍書駒を独自に模写した作品と思われ書体銘は金龍書となっています。
少なくとも、竹風師の大戦後の作品の多くは昇龍書(棋洲書)ですが、中村碁盤店の眞玉や昭玉で奥野錦旗の書体の駒は作っておりますが、大竹師の金龍書は非常に珍しい作品です。
この書体の金龍書は全く誰の金龍書を写したのかは分かりませんが、本作は幕末期の金龍による駒を大竹師が写した書体であるかも知れませんし、初代大竹氏のオリジナルの書体かも知れません。
奥野一香(幸次郎)が「錦旗」銘の駒を発売したのが「錦旗」銘の始まりで、この時に奥野幸次郎が参考にしたのが「江戸期の駒師金龍の駒」と思われます。
本書体は、おそらく初代大竹氏は江戸期の金龍駒を参考にして本駒を作ったのではと思います。

それにしても、この駒は、ある意味奥野錦旗の彫駒よりも味のある駒で書体も良い感じに仕上がっておりのびのびとした素晴らしい作品です。
大竹治五郎氏は残念ながら、本駒書体の駒を作り続けておりませんのでもし作り続けていたら、竹風師の看板商品になっていたかも知れないと思うのは私だけでしょうか。
本駒書体は戦後、大竹氏は天童へも駒を卸していたそうですので、この金龍書体が多くの天童の駒師達により上彫として模倣され、更に模倣を繰り返し天童楷書体となってしまったのではないかと思われます、実にもったいない話です。
大竹師が新潟で請負仕事をする事なく東京で独自の仕事を続けていたら、間違いなく大竹治五郎師は木村師と並び戦後の駒師の第一人者と評価されていたのではないでしょうか。
天童の駒師達が、先駆者の残した作品の書体を模倣し、その模倣の繰り返しによって、後年には書体のルーツそのものが曲がって伝えられてしまった例でしょう。
明治以降のこのような天童の駒の歴史を無視した売り上げ至上主義によって、安く模倣品を作り大量販売する姿勢が大阪彫駒を滅ぼし東京駒を衰退させてしまった原因となりますが、将棋駒の底辺のすそ野を広げた功績が大きい事も事実です。



           一乕・錦旗書                   

一乕は、関西方面に一時期広まった駒ですが、初代大竹竹風(治五郎)自身が『将棋世界』に一乕作は自身の作である事が明らかにされました。
本一乕作品は奥野の錦龍を基本にした書体構成ですが、書体名は錦旗と読めます。
さて、初代大竹氏は一乕銘では安清と錦旗しか作られなかったと言われていますが、この書体を見る限り錦龍であり錦旗ではありません。
それにしても、書体がチャンポンですが、一番近い書体構成は奥野系統の錦龍でしょうか、用いられた字母の一部は奥野系とは思えません、豊島の字母で作った奥野錦龍とでも言いましょうか、早い話、書体の字母は少々デタラメなんです。師匠もなく、継承すべき字母を持たない駒作者の弱点でしょう。

しかし、当時これだけの作品を作れる者は大竹治五郎氏くらいしかいません。当時の大竹氏は天才宮松影水を凌ぐと云われ、本作を見る限りうなずけます。
初代大竹氏は、潜龍銘での外職の経験から静山氏に出会い、後期の一乕銘の作品には豊島の字母を用いるようになり、一乕銘の錦旗は豊島錦旗を採用しています。
大竹治五郎氏は松尾錦旗、奥野錦旗、豊島錦旗、松尾淇洲の昇竜書(棋洲書)まで錦旗として作っており、逆に奥野錦旗や松尾錦旗を昇龍書としても作っており、伝えられた書体についての知識や拘りや研究はなく、書体を見事に混同しています。
本作品は奥野の錦龍を手持ちの書体字母で作ったと思われる独特な錦旗で、いかにも大竹治五郎氏らしい作品だと思います。
当時は新潟で駒作りを始めて、書体などの情報もなく、、潜龍銘での外職時代に数々の書体を入手しましたが、じっくり駒書体の研究をしている暇もなかったでしょう、受け継いだ書体や、駒師が作りたい書体よりも、販売店にとって売れる駒を強要されていた時代でもあったのです。
また、山本亨介などの書籍や宮松の誤った記述や発言により、豊島錦旗以外の錦旗書体は偽物呼ばわりされてしまった時代でもあります。
駒書体の研究が全くされていなかった時代であり、書体銘と作者銘だけで駒が売れていた時代の作品です。

下の画像は一乕が大竹治五郎であった証拠となる駒で、松尾昇龍から引きついだ3種類(松尾錦旗書、松尾棋洲書、雛駒用書体)の内の雛駒の書体で書体銘も「昇竜」です。



大竹氏は、下職であった松尾昇竜氏から譲り受けた三つの書体を昇竜書としています。
昇竜斎は、単なる駒下職職人で、松尾昇竜氏は駒を決して自身の銘を入れて製作する事はありませんでした。
松尾昇竜氏が所有していた字母紙を、大竹治五郎氏に渡し、大竹氏が昇竜書として販売した事により現在では有名な書体となりました。

松尾昇竜の昇竜書体(棋洲書)は、昭和18年頃関根名人が支援者に贈る駒が必要でしたが、当時、木村文俊は徴用工取られ、困った関根名人は豊島工房製の木地に名人自身が持つ伊藤駒での複製駒を、紹介された松尾氏に駒製作を依頼したようで、この時に松尾氏は棋洲書体字母を手にいれたようです。
この時に製作した棋洲書の字母を、松尾氏は大竹氏に渡した物と思われます。
この事は本収集の棋洲書(伊藤駒)コーナーに記しましたのでご覧ください。





         後期 竹風長禄書

後期の長録書はライバル金井静山と同年齢頃の同じ長禄書作品です、二人の作品を見比べるには丁度良い作品かと思います。
静山氏も大竹氏も駒作り職人としては長寿で、永きに渡る駒作りの結果として、晩年のお二人の作品には共通した作風が見られ、それが、お二人の駒の味ではないでしょうか。
初代大竹氏は出来上がった駒を東京に届ける際には必ず静山宅に立ち寄り駒談義に花を咲かせたそうです。




           二代目竹風・菱湖書                 涼風・水無瀬書