大橋宗桂造・水無瀬形    
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二重駒箱の蓋および底に
「大橋宗桂直造ノ将棊竹内伊蔵氏玩タル駒ニシテ明治十五年七月父君竹内伊右衛門氏ヨリ賜之 西田半三朗」
とあります。
関根名人が愛用して連戦連勝の「錦旗」の駒を贈った竹内淇洲については「伊藤駒」で紹介していますが、その淇洲の父親である竹内伊蔵が明治三年五段への昇段記念に師範である十一代大橋宗桂(明治七年3/6没)自作の駒を贈呈され以来伊蔵が愛用していた駒であったそうです。
竹内伊蔵は若くして亡くなり(明治十一年八月二十三日三十一歳 淇洲二歳)、伊蔵の父である竹内伊右衛門が親しい将棋仲間であった西田半三朗氏に明治十五年七月、伊蔵が愛用した大橋宗桂造水無瀬形の駒を贈ったものです。
西田半三朗は淇洲の記した将棋漫話の「竹裡の為人とその趣味」「「竹裡を圍繞する棋客」に紹介されており、竹内家とは将棋仲間でもあり客分格の人物であったようで伊右衛門とは非常に仲の良かった人物です。

十一代・大橋宗桂(1803-1874年)は将棋所大橋本家の頭領十一代で棋聖・天野宗歩の師で八段まで昇りました、また、大橋本家としては自ら駒作りを始めた宗家でもあります。
本作は桐外箱と黒柿の二重箱で、黒柿の駒箱は大橋三家共通本式の作法通りの寸法であり、黒柿では最高の孔雀杢の部位を材料として作られており大変に貴重です、現在同じ材料で駒箱を作ったら数十万は取られるかも。
駒は、薩摩黄楊で小さめの駒形に水無瀬書体の彫埋駒です、駒尻の銘は盛上げですが、銘は長年の使用により彫埋状態となっています。
「勝負に負けて銀を噛む」と良く言われますが、本作品には銀以外にも多くの噛み後が残されており、本駒が幾多の真剣勝負や名勝負を演じた時代の生き証人の様で、まさに「使われてこそ名駒」です。



竹内淇洲の将棋漫話に淇洲が明治三十五年に十二世大橋宗金の自宅を訪ねた折に御城将棋の作法の写しをもらい、それによると。
1.駒は水無瀬駒を用いるものとす同駒は水無瀬中納言の直筆にて黄楊製に有り徳川家宝蔵のもの
1.四、五年或は稀に後水尾天皇御辰筆の駒を用いる事あり
と書かれており、徳川家との将棋の際は徳川家秘蔵の水無瀬駒を用いるとありますので、おそらく大橋本家は書体にもランク付けしていて、段位贈与の際に段位や納金の額が最も高額な者には水無瀬中納言、そして下位には金龍や真竜の駒を贈った(買わせた)のではと思われます。
宗桂当時の駒の値段について漫話に、水無瀬形三分二朱、金龍形三分、董斎形二分二朱、真龍形二分と記されており、意外に真龍形が一番安かったようです。
また、漫話の中で大橋宗桂が「金龍氏は藩中の仁にて内職に御座候、真龍氏は実の処拙宅地主にて御徒方に御座候、金龍真龍両氏は駒製作者にて、董斎とは松本董斎とて当時の書家なり。」と書いています。
将棋所、大橋家は幕末の大政奉還で徳川家から録を頂く身分ではなくなり、与えられていた屋敷も没収され、御徒方(下級武士)に家を借りる程であり、生活の為に駒を作り、段位贈与時には駒や盤も売り生活の糧としていたと思われます。
真龍は董斎書駒を得意としており、宗桂のお抱え駒師と言われておりますが、その実は親も同様の地主で逆に宗桂は真龍の援助を受け、駒作りを始めたのではないでしょうか。
さらに、宗桂の子、宗金の時代では真龍との縁も絶え池の端茅町のむさくるしい茅家に移り住み駒作りをしていたとの事で大橋家の凋落ぶりが伺えます、また宗金は金龍形の駒(米庵)を模倣して作っていたといわれます。

本駒作品や大橋宗桂の駒作については熊澤良尊氏の「名駒大鑑」の60ページにも書かれておりますので参考にして下さい。