本作は二代目奥野一香による大正末期頃の作かと思われ、奥野の初期型の宗歩好と同様のハンコを用いて製作されております。
父である初代奥野一香が無くなり次男の幸次郎は彫駒や彫埋駒を中心に駒を生産する事になりますが、高級駒としては豊島龍山に一歩おくれを取り、高級駒である盛り上げ技術の習得に励んでいた時期でもあります。
本来、清龍とは駒師名で伊達家伝来の駒に清龍作と記されており字母は本作とは異なりますが同書体の駒が存在します。
また、大正から昭和初期の頃の駒には本作と同じ字母と思われる清龍と銘だけが入った盛り上げ駒も残されており、また同じ字母で無名の彫り駒などが残されており、清龍を得意とする別の駒師が存在したのではないかと思われ、奥野商店で清龍として販売されていました。
また、大正時代の清龍作者と思われる作者は豊島龍山銘でも本書体の駒を「錦龍」として駒を作っていたようです。
基本的に奥野商店で販売する外職の駒にはスタンプインキで銘が押されておりスタンプインキは長年の使用と共に銘は消えてしまい無名の駒となってしまいます。
しかし、奥野商店では幸次郎が製作した駒には基本的に漆を用いてゴム印を押して差別化していたようで、無名及びスタンプインキの駒は奥野商店に出入りする外職の駒職人による作品と思われます。
清龍の外職作者の駒は、本来は清龍に花押のスタンプが用いられスタンプインキで押されており奥野商店で販売されています。
ですから、本駒の清龍書体は奥野一香のオリジナルではなく、江戸期の駒師清龍の駒を写した、当時、豊島や奥野と関係する清龍を名乗る無名の外職の駒師による書体であると思われます。
右の清龍・花押の銘はスタンプインキで銘が記されており、非常に薄くなっていましたので画像処理して見易くしてあります。 書体は本駒清龍とまったく同じで、外職が作り奥野商店で販売した作品と思われます。 本駒の「清龍」は右の清龍花押の花押部分だけ削除した書体で、本駒銘は右のハンコを流用したかも知れません。 |
当時の奥野幸次郎は駒師としては一人前とは言えず、出入りの駒職人達から駒作りの技術を習得したと思われ、高級駒として盛り上げ技術の習得に専念した時期でもあり、本駒の彫は外職の仕事かも知れませんが、盛り上げ技法など少々稚拙ながら幸次郎による特徴が見られます。
最盛期の幸次郎の盛り上げはダイナミックな盛り上げで三次元的表現が特徴で本駒にもその傾向が見られますが少々細かな点では技術的に稚拙であり、かえって初期の幸次郎作品の特徴でもあります。(実は幸次郎の作品は拡大境で観察すると共通のクセが見られます)
また、奥野が用いる銘のハンコには数種類があり、それぞれ目的や時期により使い分けられ、本駒に用いられたハンコは大正から昭和初期の短い期間に用いられたハンコで、本作は奥野幸次郎が盛上げた大正期の作品です。
本駒は薩摩黄楊の柾目が用いられ当時の駒としては高級品に属し、仮に外職が彫った駒を幸次郎が盛上たとしても当時の幸次郎にとっては会心作ではないかと思われ、実際に裸眼で見ると細かな欠点は気にならず(歳のせいかも?)総体的には良い印象の駒です。
また、奥野の漆のハンコを記された清龍の駒は非常に珍しい作品で、現在残されている多くの清龍の駒は無名か奥野商店で販売した外職の駒か豊島碁盤店で販売された外職の錦龍の作品です。
江戸期末期の伊達家伝来の将棋盤と共に残された駒に清龍作と銘が記されており、清龍は江戸期の駒師銘と思われ、書体は安清の水無瀬系です。 本来清龍は作者銘で書体名ではありません。 |
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右作品は豊島龍山作品としては数次郎あるいは豊島工房作品ではありません。 豊島の注文により外職が作った作品ではないかと思われます。 書体は明らかに奥野の清龍字母により作られておりますが書体を錦龍としております、何よりも駒型は豊島ではなく奥野系の駒型で豊島工房作品ではありません。 初代奥野一香が亡くなり、職を失った奥野の職人が豊島の外職として仕事をしていたのではないかと思います、「錦龍」としたのも奥野商店への配慮として、同じ駒名を使用する事を避けたのでしょう。 豊島は字母帳以外にもかなり怪しい書体の作品も残していますが、豊島作品も豊島工房オリジナルの作品ばかりではなく外職による作品もあります。 特に初代奥野一香が亡くなった以降の大正時代は元からの職人達が離れてしまい奥野商店にとっての駒作りは存続の危機だったのです。 |