奥野一香作・昭和大興記念・菱湖書
紙製の駒箱には「本黄楊藤巻 菱湖書 天下一品 奥野刻 無剣愛玩」とあります。
鋸などの柄に滑り止めと補強の意味を兼ねて細い藤の木の皮が巻いてあります、その模様を藤巻と呼びます。
虎斑よりも細かい藤巻き模様の黄楊の事です。
「本黄楊藤巻模様の木地に菱湖書のこの駒は天下一品の品物で奥野商店が作りました、渡邊千冬はこれを大いに気に入りました」、と、この様な意味です。渡邊は無剣○○とその時の気持ちを○○に表し愛玩とは渡邊千冬の持ち駒という意味ではありません、好きな物とか好みと言う意味です。
当時、貴族議員連中の中でも渡邊千冬の将棋好きはかなり知れ渡っていました。そんな渡邊に売り込みの為なのか自慢する為なのか分かりませんが、誰かが(おそらく土居市太郎の縁者)、奥野の会心作を見せ、後日の記念に渡邊に一筆サインしてもらい、そして大事に箪笥の奥にでも仕舞われ、やがて忘れ去られていたものでしょう。本当にタイムカプセルです。
しかし、貴族議員の大物である渡邊に「天下一品」と言わしめたその作品の実力は、木地はもちろんの事、個性的な漆の盛り上げ、珍しい彫り銘など、どこをとってもいろいろな意味で素晴らしい一品です。当時の奥野商店に出来る限りの会心作であった事は間違いありません。
入手時には駒は油紙に包まれて駒表面の蝋が白濁しておりました、製作されてから一度も使用されず磨かれもされなかったのでしょう、80年以上もの眠りから覚めて良くぞ現世に現れてくれたものだと感謝し早速乾拭きをしますと本来の輝きが少し蘇りました。
一度だけの乾拭きで十分とは思えませんが是ほどの輝きを取り戻しました。しかし80年もの間新品を守り通したこの駒をこれ以上に手入れをする事はなんとなく憚れます。
さて、この作品の菱湖書ですが、玉将の玉の字が他の菱湖書体とは異なります、菱湖書は大正8年頃に高濱禎が駒字として巻菱湖書を作ったのが始まりとされ、豊島が最初に駒にしました。私のコレクションに大正期の豊島の菱湖書がありますのでご覧ください。
現在では、ほとんどの駒師が豊島が残した字母を基本としておりますが、本駒の字母は豊島の字母と同一ではありません。
高濱禎の駒文字には玉と王の両方が書かれており、不思議な事に豊島の残した字母帳には玉文字がありません。
しかし、実際に豊島が大正期に製作した駒には玉文字と王文字があります。
又、静山も龍山銘での初期作の菱湖書は王字に点を付けた玉字の菱湖書の駒を作っており、豊島字母帳の菱湖書体から大竹氏も静山も奥野も菱湖書の駒を作り、三名共に豊島字母帳を頼りにして、誤ったのかも知れませんね。
後の奥野一香は本駒以外には菱湖独自の玉文字作品と、本駒の玉文字の混在作品も多数残しています。
豊島の菱湖駒よりも奥野の菱湖の駒の方が圧倒的に今日には多数残されています。
おそらく奥野一香は、書体創作者の高濱禎から字母の提供を受け、奥野は高濱禎の承諾を得て量産していたのでしょう。
奥野菱湖と豊島菱湖は基本的に同一の書体創作者の依頼であっても、全く同じではありません、奥野菱湖と豊島菱湖は簡単に見分けられます。
現代作家の菱湖作品は作者の駒文字に対する模倣系統が、豊島系か奥野系かの違いは、菱湖作品に顕著に表れています。
昭和三年、初代奥野は7年前に亡くなり、外注職人松尾昇龍は年齢不詳、二代目奥野一香(幸次郎 )29歳、初代龍山(太郎吉)66歳、二代目豊島龍山(数次郎)24歳、豊島下職の木村文俊20歳(翌年の昭和4年に独立)、松尾昇龍に弟子入り直後の大竹治五郎14歳、特定の職もなく暮らしていた金井静山24歳、そして宮松幹太郎が産声をあげた年であった。奥野幸次郎は10年後の昭和13年に亡くなり終焉を迎えてしまいます。
前年には奥野家の長女が嫁いだ先の土居市太郎が会長を務める東京将棋連盟が関西の棋士をも合流して日本将棋連盟となった年でもあり、関西の高濱禎が奥野に書体量産を許可したのでしょう。
参考に巻菱湖の書から駒字に使えそうな字体を集めてみました。うーーーーーーん汗(高濱禎)
将棋春秋昭和4年奥野の広告