まずは、奥野錦旗書についての流言ですが。
「奥野錦旗の元字は明治の流しの三味線引きであった昇龍斎の書体である」と、尤もらしく語り次がれているが、天狗太郎自身も、「昇龍斎にゆかりのある老人から聞いた、真相は、定かでない」と言っており、根も葉も無い話で宮松幹太郎の研究不足から生じた妄想です。
しかし、昇龍斎は実在したと思われ、それは奥野の外注職の一人であった松尾某氏の駒師銘が昇龍斎と思われます。
松尾某氏より大竹師に譲られた2種類の昇龍書体 淇洲書を写した昇龍書体 |
雛駒に用いられた関西風の昇龍書体 |
初代竹風師は二種類の書体を松尾氏から譲り受けたと話しており、上画像の二種類の書体を譲り受け昇龍書としました。
さらに、中村碁盤店で外職をしていた時に、奥野錦旗の駒を「新龍」として作りますが、字母は奥野外職の昇竜斎から譲り受けました。
松尾昇竜斎を名乗る者は奥野の外注駒師であり、自分自身の字母を持つ駒師で、銘は「昇龍」であった事が理解できます。
そこで、次の二種類の奥野の錦旗の彫駒をご覧下さい。
多くの彫駒の錦旗に用いられる書体 |
多くの盛り上げ駒に用いられる錦旗の彫駒書体 |
上記の二種類の奥野の錦旗は、左側の書体は、後に中村碁盤店の外職が錦旗や新龍として製作した書体と同じです。
奥野一香商店では、二種類の錦旗書体が存在し、左の書体は、外職の彫駒を奥野錦旗として販売した書体で、右側の錦旗書体は、多くの盛り上げ駒に用いられた奥野錦旗書体であります。
本作の多くの盛上作品が奥野錦旗書体で、幸次郎が豊島の安清の書体を「宗歩好」としたのと同様に、江戸期の駒師金龍(二見氏治)の駒を模倣して「錦旗」としたようです。
金龍の駒を模倣したのであれば、市川米庵の楷書体となり右側の奥野錦旗の書体となるはずです、左の外職の錦旗は楷書体であり、金龍の書体ではありません。
「錦旗」の銘は奥野が豊島の金龍書に対抗して売り出す為に「錦旗」として命名したもので、この時代、豊島の金龍書は関根名人が所有していた淇洲書体の写しであり、豊島の金龍書は「錦旗の駒」として有名であり大正後期から昭和初期には一番売れていた駒です。
また、残されている駒の数からして「錦旗」の銘は奥野が最初に売り出し大変に人気で良く売れ、奥野幸次郎が死亡後に、豊島が後水尾天皇筆写しを「錦旗」として売り出しましたが、豊島は奥野錦旗書体を「錦鳳」として命名し、錦旗の一つとして残しております。
しかし、「豊島錦旗」を開発しましたが、一年後には豊島数次郎も亡くなってしまい豊島錦旗はほんの数組程しか世に出てはおらず、「錦旗」銘の駒は戦前には奥野錦旗が主流でありました。
奥野錦旗の書体が江戸期の駒師金龍(二見氏治)が残した書体である事は、江戸期の金龍の駒を物証として示すべきですが、残念ながら現在では駒師金龍の作った本書体の駒は残されていませんが、私はこの書体の金龍の駒は必ず存在すると思います。江戸期の金龍のコナーで説明していますのでご覧下さい。
それは、金龍の駒を写したと思われる駒が幾つか残されております。下記画像は、作者銘は木戸作、書体名は金龍書です。
注目すべきは、書としての筆の入りが奥野錦旗にも見られる書の入りが横から入る独特な特徴があり、龍馬の昇り龍が墜落した下り龍となっている特徴があり、これは書家の書を写した特徴で、駒書体としての書体ではありません。
木戸作・金龍書と奥野錦旗の違いは香裏だけで、書として特別な特徴を共に共有しており、この木戸と奥野は同じ作者の書体を写した駒であると思われます。
金龍書銘が入った古い駒でこの「金龍書体」の駒は他の作者銘でも数組の古い駒の存在を確認しております。
昭和になると金龍書銘の駒は豊島の「棋洲写の金龍書」が多くを占めて見られます。
また、奥野錦旗と同じ書体構成の駒は、木村の「玉舟」があり、書の入りの特徴など、奥野錦旗と同じ特徴が見られ(木村コナーに画像があります)、初代大竹氏の戦前に作られた金龍書の駒は書体構成だけが同じであり参考として下さい(初代竹風のコナーに画像があります)。
戦後の駒作者が書体に理解なく、ただ単に駒を売る為に、他者の駒を写し別の書体名を付けたもので、現代作家の様に他者の作品を写した駒に書体名までも写し記するなど、ゲスな事はせず、最低限のマナーとして別書体銘を付けたのでしょう。
「錦旗」銘の駒は奥野幸次郎の斬新なアイデアで命名したものです。
佐藤公太郎氏が粋狂談義に「昭和の当初に東京で錦旗と称する駒が売り出されたが、字形が金龍に似ている」と証言しており、金龍の字形とは江戸期の駒師金龍(二見氏治)の事を指しており、佐藤公太郎氏の指摘した錦旗と称する駒とは奥野錦旗の事であると思われます。
もし佐藤公太郎氏が、豊島の錦旗書体の駒を見て書いたのなら「字型が水無瀬形に似ている」と書くはずです。
以上の事からも、少なくとも明治、大正、昭和初期の頃はこの書体が、駒師金龍(二見氏治)が残した書体として認識していたように思われます。
さらに、本駒錦旗書体こそ金龍が残した市川米庵の書体であると私は確信しています。
山本亨介が聞いた松尾某氏は、名前も分からず「某」と呼んで、昭和二十六年に死亡したといわれ、本当に影に隠れた雲のような存在ですが実在した人物です。
しかし、数々の名品を残した人物であった事を確認出来る資料も物証もありません、自身の銘を入れた駒もありません。
確実に松尾昇龍の作品であると確認できる駒は私は実見した事がありませんが、最近無名の駒で松尾昇龍の作品と推測できる駒を入手し昇竜書の謎に迫りましたので、機会があれば後日紹介します。
二代目竹風氏の話では、初代竹風氏は松尾氏に駒木地を納め松尾氏から代金を回収していて、見よう見まねで駒作りを覚えたとの事で、初代竹風氏は奥野商店に駒木地を納めるなどの取引は一切なく、駒師として奥野の流れと評価されますが、奥野一香とは一切何の関係もありません。
竹風氏は実際には中村碁盤店の外職として仕事をしていた時に松尾氏と出会い、その関係から当初は松尾の字母紙から駒を作っていただけで書体に対する知識はありませんでした、大竹氏は静山氏が中村碁盤店の外職として加わった事から、静山の書体を主力として駒作成しており、大竹氏は奥野系というより豊島系の作者です。
松尾氏は奥野商店に駒を納めていた幾つかの外職の一人に過ぎなかったようで、自分自身の銘の駒を残しません。
幸次郎は三十九歳の若さで昭和十三年に亡くなってしまい、奥野一香の駒は終焉を迎えてしまいます。
奥野幸次郎の残した作品、特に盛上げ駒の漆表現は現在の駒師には見られない漆表現で、まさに天才駒師の名に恥じる事のない名品を残しましたが、奥野幸次郎は天才ではなく豊島数次郎をライバルとしてその駒作りを競い努力したからこそ得た称号で、その奥野幸次郎独自の漆表現は現在も他の模倣を許してはいません。本作はその幸次郎の個性を見事に表した駒で、これぞ奥野の駒です。
最後に私は、奥野錦旗は奥野幸次郎が江戸期の駒師金龍(二見氏治)の駒を写した市川米庵の書体であると予想すると共に、駒名に「錦旗」を冠する事が出来るのは本当は淇洲駒であり、連戦連勝の駒として淇洲の書体を写して「錦旗の駒」と称すべきと思います。
豊島の錦旗はオリジナルの創作、奥野の錦旗は「江戸期の金龍」(二見氏治)、木村の錦旗は「安清」であり、写した元書体を記するか、「淇洲錦旗」「豊島錦旗」「奥野錦旗」「宮松錦旗」「木村錦旗」と手本とした駒の作者名も併せて記するのが写し駒作者の守るべき最低限のモラルではないでしょうか。
先人の残した駒を模倣するのであれば、先人に敬意と感謝の気持ちを込めて先人の名も残すべきです。
本来「錦旗」とは「錦鳳」「宗歩好」「阪田好」と同様にして奥野や豊島が商売上に付けた駒名であり、書体作者名ではありません。
よく、駒史実も知らない駒作者は「駒は錦旗に始まり錦旗に終わる」と言って豊島錦旗を模倣しますが、駒コレクター側から見れば「駒は水無瀬に始まり水無瀬に終わる」で、豊島の錦旗書体は水無瀬書体を数代に渡り写した駒のほんの一書体であり、基本的には水無瀬書体(水無瀬形)の一っのバリエーションにすぎません。
少なくとも将棋界での「錦旗」とは関根名人の持ち駒「棋洲書」であり連戦連勝の駒です。藤井壮太も初代大竹氏の「昇竜書」を愛用しており「棋洲書写し」で「錦旗」の駒です。
棋洲書こそが連戦連勝の「錦旗」なんですね。ちなみに私も孫との対戦に香園の棋洲書を使用してますが連戦連勝中です。
「温故知新」、残された名工の多くの駒にはまだまだ沢山の謎が隠されており、蒐集された駒によって今までの駒研究者の?言が暴かれていきます。