昭和22年関三郎が心臓麻痺で61歳の若さで急死をしてから、職人たちは去り、二十歳の頃、幹太 郎が「影水」と駒師名を変え、「山華石」などの彫り駒を作りますが、戦後の混乱の中思うようには売れませんでした。
本彫駒は俗に土居駒とよばれ、幹太郎が二十歳の頃に将棋連盟に駒を売り込む為に、当時の日本将棋連盟初代会長「土居市太郎」氏に贈呈した駒として有名な駒で、他にも鵞堂など数種類の駒を土居名人に贈ったようです。
そんな努力の甲斐あって、奨励会の対局駒や、近代将棋の池袋道場の道場駒として使ってもらえるようになりましたが、駒造りの基礎が出来ていなかった幹太
郎は、職人を呼び戻し、職人から駒造りを教わりそして、後に天才駒師の名を得るまでになります。
そんな若き幹太郎がまだまだ未熟であった頃、ご覧の通り目止めすら出来ていない時代の作品です。
さて、若き勘太郎の腕前よりも私が本駒に興味を持ったのは本駒に用いられている書体です、本駒の書体名は昇龍書ですが書体は奥野幸次郎の奥野錦旗です。
何で宮松が奥野の駒を?、何で錦旗ではなく昇龍書?
日本将棋連盟初代会長である土居市太郎の妻は奥野藤五郎の長女で土居家は奥野家との縁もあり名人駒と呼ばれる駒もそんな縁から奥野の「宗歩好」が採用されました。
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」のたとえでしょうか、幹太郎はそんな実力者である土居会長に少々ゴマをすって奥野書体の駒を贈ったか、あるいは土居会長の注文だと考えられます。
しかし、奥野錦旗を昇龍書とした意図は何なのでしょうか?
おそらく、宮松勘太郎は自身の持つ豊島字母の正統性を保つ為に奥野錦旗を「錦旗」とは入れられなかった(2種類の錦旗)、そこで、元字となったと聞いていた昇龍の書としたのではないでしょうか。
しかし、この書体は奥野幸次郎の奥野錦旗で、初期の松尾昇龍による松尾錦旗書体ではありません。
少なくとも宮松勘太郎は昇龍の書体と奥野錦旗の書体を誤認していたか、作為的に行ったと思われます。
昭和二十二、三年頃の初代大竹竹風氏は奥野錦旗を昇龍書とも錦旗とも作ってはおらず、初代竹風氏は昇龍書は松尾氏から贈られた淇洲書写しの書体を昇龍書として作っており、奥野錦旗は昇龍書との認識ではありません。
また、大竹竹風師は奥野錦旗の字母は持ってはおらず、奥野錦旗を模倣した駒を金龍書としています。初代竹風のコーナーの金龍書をご覧下さい。
最初に奥野錦旗をコピーして昇龍書としたのは宮松幹太郎が最初であり、その事で奥野錦旗と昇龍書が同じ書体であると世間に広まり、其の話が新潟に住む初代大竹竹風氏に伝わり、大竹氏は松尾の淇洲書体が奥野錦旗であると勘違いして一時期、松尾の淇洲書体を奥野錦旗として作りましたが、その後、過ちに気付き、潜龍の外職時代に作られた新龍書体(松尾錦旗書体)を奥野錦旗とし、松尾淇洲書体の駒は昇龍書に戻されました、そして、その後大竹氏は、錦旗書体は松尾錦旗書体から奥野錦旗書体に変え錦旗とし、二代目竹風師からは昇竜書としています。その不可解な駒名遍歴はこの幹太郎が昇龍書とした事が原因で起きた事の理由ではないかと私は想像しています。
また、熊澤氏が「名駒大鑑」に奥野一香の錦旗は、「豊島龍山の錦旗の書体とは似ていないのである。むしろ淇洲の書体に類似している。」と書かれたのも同様に、初代竹風氏の誤った奥野錦旗の駒を見ての記述ではないかと思います。
幹太郎は昭和24年頃から将棋研究会発行の「将棋評論」の表紙に幹太郎の駒画像が採用され、「表紙解説」として駒書体の由来などを書いており、国立図書館などで豊島字母の書体について調べた事を書いており、実際に多くの駒を調査して書かれた内容ではありません。
当時の駒師としては大学に学んだ駒師は幹太郎くらいの者しかおらず、一躍宮松幹太郎が駒文字の権威となり、多くの駒作者達が幹太郎の説を盲目的に信じる事になり、現代駒書体の歴史については山本亨介(天狗太郎)も詳細に調査される事もなく宮松幹太郎が誤って伝えた事をそのまま書籍に残し伝えられたのです。
この様な事は模倣駒作者の誤った認識が後世に伝えられ、いつ日にか誤りが真実と伝えられていきます。
宮松幹太郎は父関三郎の残した豊島字母を守る事により駒師として名を成しますが、あくまでも豊島の字母紙だけを受け継いだ現代駒作りの一職人で、豊島字母を基に美しく盛り上げますが、豊島数次郎の駒作りの秘伝は受けていません。
駒作りに大事な事は伝統書体や伝統技法などではなく、作者個人の個性の表現です。
宮松幹太郎は40歳の頃は「口で仕事をするようになった」と言っていますが、若い頃から口で仕事をしていたんです、その事が駒の歴史が曲がって伝えられてしまった大きな原因で駒業界が大きな転換期を迎え駒研などを中心に多くのアマチュア駒師や評論家が誕生したのです。
そして戦前からの伝統的駒作りの技法は絶えてしまい、アマチュア駒作りの駒しか生産されていません。
美水作・清安書
幹太郎が突然肝硬変で亡くなった後、それまでに注文受けしていた駒は金井静山に頼み宮松銘をつけて納品し急場をしのぎます。
しかし、突然の事でしたので大量の駒木地が残され、一時期は静山が代役で作りましたが、未亡人は残された木地は全部自分で駒に仕上げる決心をし美水銘を名乗ります。
当時、宮松幹太郎を贔屓にしていた名古屋の板谷九段はそんな残された家族の為に数百組もの美水銘の駒を買い地元名古屋で販売し協力しますが、何分にも美水女氏の駒はご覧の通りの出来であり思惑通りにはいかなかったようです。
そんな、美水女氏の為に駒研の佐藤幸水氏も随分協力し、本駒も彫は幸水氏によるものといわれています。
美水女氏は歌や書道が堪能ですが、駒の盛り上げは書道とは勝手が違いご覧の様な出来となってしまいましたが、夫、幹太郎が作った駒木地を自分の手により駒に仕上げる事で供養としたかった未亡人の想いです。
愛する夫の残した物を本当は全部自分の物にしたかったのでしょう。女の未練とでもいうのでしょうか、そんな作品です。
しかし、駒作品としては非常に残念な作品で、幹太郎がこの作品を見たら何と言ったでしょうか。