宮松影水は、宮松関三郎、幹太郎親子の銘で、関三郎は将棋指しで七段まで上ります。
豊島、奥野の駒師界の両巨頭が昭和十五年までに相次いで亡くなり、将棋界を引退した関三郎は駒造りをする決心をし、昭和18年に豊島の遺族から字母紙と生地を買い求めたそうです。しかし関三郎は駒を作ることが出来ず、職人に駒を作らせ主に「宮松」銘を用いていますが、昭和22年関三郎が亡くなり幹太郎が本格的に駒作りを始め影水を名乗ります。
昭和壬辰とは1952年・昭和27年であり本作は宮松幹太郎24歳にして製作した作品です。
当時、棋士であった父関三郎との親交が深く、息子の宮松幹太郎を特別に贔屓していた名古屋の板谷四郎九段が本駒を譲り受けた物です。
板谷四郎九段の次男も棋士となった板谷進九段で、宮松家との親交も深かく、宮松幹太郎は板谷親子に特別に可愛がられ、宮松影水を世に送り出した立役者です。
板谷進九段は本駒を展示会や集会などでも披露し、宮松幹太郎の宣伝に一役買ったといわれます。
また、勘太郎亡き後、未亡人のトミさんの為に「美水」の駒を数百組買い入れ地元名古屋で売り捌いたそうです。
本駒は、そんな板谷親子が幹太郎の遺品として大事にされていた駒で、余り歩5駒の計45駒となっており、親子二代に渡り高名な専門棋士であり、駒コレクターであった板谷九段親子に大事にされ、影水の駒を世に知らしめ育てたのです。
影水自身が認めた生涯会心作の一作
宮松幹太郎と親しい将棋研究家の山本亨介は幹太郎からの話として、天狗太郎の「将棋101話」に、宮松幹太郎自身が話として、幹太郎は生涯に会心の作が二組あり、その二組には製作年が刻まれ「そいつを手放すときは辛くてね」と話していたと記されています。
若き幹太郎を贔屓にしていた、当時高名な板谷九段の頼みですので幹太郎にとって断る事は当然出来なかったのでしょう、が、しかし、当時、木村文俊、金井静山に比べ各段に格下であった宮松影水の名を広め、人気駒作家となった大恩人、板谷九段に渡った事は幹太郎にとっては本望だったと思います。
本駒は、その宮松勘太郎が会心作の一組であり、世に絶品と評価され、知る人ぞ知る宮松駒コレクターにとっても憧れの名駒の一品でもあります。
本駒の錦旗書体の字母は、豊島龍山が残した錦旗字母を用いて作られており、豊島錦旗の模倣そのものですが、宮松関三郎、幹太郎の初期作品を見る限り、実際の豊島龍山作品を研究した事もない静山と同様に字母紙だけに頼った作品しか作れませんでした。
それに比べ、豊島龍山が唯一の弟子であった木村文俊は違います、彼の感性が十分に発揮された盛り上げで同じ書体でも勢いがあり、当時将棋駒師として第一級の職人であり人気駒師で、製作が間に合わない程の売れ行きです。
影水はその原因に気付いたのでしょう、駒の書体感性やその表現こそが大事である事に気付き、彼なりに研究したのでしょう。
豊島の字母紙模倣作者であった宮松幹太郎が豊島龍山を研究し駒師影水として、自身の作品に自信を持つきっかけとなった作品だったのではないでしょうか。
本作品は以前の作品よりも一歩豊島龍山に近付いた仕上がりとなりました。
が、影水は本来、職人肌ではなく、学者肌でその作品にはムラが多く、出来不出来が在る作者で、彼は「駒作りは35歳までで以降では口で仕事をした」と自戒しています。
是非、豊島や静山の錦旗と見比べてみてください。
昭和25年将棋評論・宮松の広告
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