木村香順作・象牙(菱湖書)          
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木村香順作・象牙(菱湖書)


納得できるまで手間暇を惜しまず、ひたすら素朴で丁寧な作品作りを目指す姿勢こそ木村香順の魅力であり、この作品こそ香順の作品らしさが表れている作品かと思います。
本駒の菱湖書も基本的には豊島菱湖ですが、静山や影水を模倣していません、あくまでも木村香順オリジナル菱湖書で、決して先人の作品の模倣ではありません、多くの菱湖書の作品を研究した結果なのです。
この様な、木村香順の菱湖書へのの解釈表現が随所に見られ、他の駒作者とは全く異なり、駒への独自の解釈が見られ、駒を作り売る事より、作品として製作している姿勢が良く見て取れます。
木村香順は旗具作者としては巨匠と他の作者からも崇められる、一流の旗具作家で、見事な作品を数多く残す作者です。
さすが、その一流の職人が作った駒だけあって、一流のプロ駒作者にも勝るとも劣らず、技量、書体表現、教養、の深さが見て取れ、作者の思いが感じられる作品であり、木村香順が玄人の収集家に好まれる理由なのです。


多くの象牙駒は書き駒なのですが、本駒は書き駒の風合いは無く、一見して盛り上げ駒と判断でき、駒文字としては香順の菱湖書らしい菱湖書で、現代風の解り易く見易い作風となっております。
おそらく、駒そのものは堀埋め盛り上駒だと思いますが、驚くべきは玉将、王将、四個の金将の裏に書かれた般若心経です。
般若心経は肉眼で見る限り、一見堀埋めによる製作と見えます。
しかし、これが堀埋めならば、常識では不可能と思われ、最早神業と言わざるを得ない毛筆の出来栄えです、般若心経文字は肉筆による文字書体ですから、極小文字の達人ならば、書いて乾燥後に表面の凸凹を、極めて丁寧に砥ぎ出せば可能であると思いますが、極めて高度な技術と正確性が求められます。

読者諸兄はどの様な技法によるものと想像しますでしょうか?
私の所見ですが、二種類の技法により制作されると想像します。
王将の底面の「摩訶般若波羅蜜多心経」は転写シートにより文字転写し、転写シートの糊は接着力が弱いので保護の為にクリアー塗装したのであろうと思われます。
空白部分の転写シートの糊の痕跡がクリアー塗料との経年変化により変色している痕が見られます。

王将や金将の裏の般若心経の文字はおそらく、漆を使ったシルクスクリーン印刷だろうと思います。
ほとんどの文字が均一な厚みであり、玉将の「空不異色」の「不」の文字が重複印刷されています。ほんの些細な手振れだと思われますが、手書きであれば決して起こらないミスです。
保護のクリアー塗装はされていません。

般若心経文字が無くても木村香順作品として十分に魅力的な象牙駒作品です、般若心経文字は素人でも可能な技法であり、香順のお遊びですが、木村親子の豊富な知見と知識の表現であり、好意的に受け止めたいと思います。
この駒は展示などにはもってこいの作品ではないでしょうか。



般若心経は古くから困ったとき日本人のお守りとしても使われてきました。 あの耳なし芳一も亡霊に連れて行かれるところを、和尚さんが芳一の全身にこのお経を書いて守ってもらったのでした。(耳にだけ書くのを忘れてしまい耳なし芳一と) すなわち厄除け、魔除け、開運と何でもありの霊験鮮かなお経なんです。般若心経は三蔵法師が長いインドまでの旅を終えて持ち帰った、ありがたい経典なんだそうです。

般若心経     (三蔵法師玄奘訳)

玉将
観自在菩薩        (観音菩薩が、)
行深般若波羅蜜多時  (深遠な知恵を完成するための実践をされている時、)
照見五蘊皆空       (人間の心身を構成している五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極めて、)
度一切苦厄        (すべての苦しみを取り除かれたのである。
舎利子           (そして舎利子に向かい、次のように述べた。舎利子よ、)
色不異空         (形あるものは実体がないことと同じことであり、)
空不異色         (実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。)
色即是空         (したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、)
空即是色         (実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。)
受想行識         (残りの、心の四つの働きの場合も、)
亦復如是         (まったく同じことなのである。)
舎利子           (舎利子よ、)
王将
是諸法空想        (この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、という性質があるから、)
不生不滅         (もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、)
不垢不浄         (よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、)
不増不減         (増えることもなく、減ることもないのである。)
是故空中無色      (したがって、実体がないということの中には、形あるものはなく、)
無受想行識       (感覚も念想も意志も知識もないし、)
無限耳鼻舌身意    (眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もないし、)
無色声香味触法    (形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞれの器官に対する対象もないし、)
無限界乃至無意識界 (それらを受けとめる、眼識から意識までのあらゆる分野もないのである。)
無無明          (さらに、悟りに対する無知もないし、)
金将
亦無無明尽       (無知がなくなることもない、)
乃至無老死       (ということからはじまって、ついには老と死もなく)
亦無老死尽       (老と死がなくなることもないことになる。)
無苦集滅道       (苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。)
無知亦無得       (知ることもなければ、得ることもない。)
以無所得故       (かくて、得ることもないのだから、)
菩提薩垂         (悟りを求めている者は、)
依般若波羅       (知恵の完成に住する。)
金将
蜜多故心無圭礙    (かくて心には何のさまたげもなく、)
無圭礙故無有恐怖   (さまたげがないから恐れがなく、)
遠離一切転倒夢想   (あらゆる誤った考え方から遠く離れているので、)
究境涅槃         (永遠にしずかな境地に安住しているのである。)
三世諸仏         (過去・現在・未来にわたる”正しく目覚めたものたち”は)
依般若波羅蜜多故   (知恵を完成することによっているので、)
金将
得阿耨多羅三藐三菩提(この上なき悟りを得るのである。)
故知            (したがって次のように知るがよい。)
般若波羅蜜多      (知恵の完成こそが)
是大神呪         (偉大な真言であり、)
是大明呪         (悟りのための真言であり、)
是無上呪         (この上なき真言であり、)
是無等等呪        (比較するものがない真言なのである。)
能除一切苦        (これこそが、あらゆる苦しみを除き、)
金将
真実不虚         (真実そのものであって虚妄ではないのである、と。)
故説般若波羅蜜多呪  (そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。)
即説呪曰         (すなわち次のような真言である。)
羯帝羯帝波羅羯帝   (往き往きて、彼岸に往き、)
波羅僧羯帝       (完全に彼岸に到達した者こそ、)
菩提           (悟りそのものである。)
僧莎訶          (めでたし。)


般若心経 現代語訳  ひろさちや氏訳

観自在菩薩がかつてほとけの智慧の完成を実践されたとき、肉体も精神もすべてが空であることを照見され、あらゆる苦悩を克服されました。
舎利子よ。存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。
存在がすなわち空で、空がすなわち存在です。
感じたり、知ったり、意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これまた空です。 舎利子よ。
このように存在と精神のすべてが空でありますから、生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしません。
そして、小乗仏教においては、現象世界を五蘊(ごうん)・十二処・十八界といったふうに、あれこれ分析的に捉えていますが、すべては空なのですから、そんなものはいっさいありません。
また、小乗仏教は、十二縁起や四諦といった煩雑な教理を説きますが、すべては空ですから、そんなものはありません。
そしてまた、分別もなければ悟りもありません。
大乗仏教では、悟りを開いても、その悟りにこだわらないからです。
大乗仏教の菩薩は、ほとけの智慧を完成していますから、その心にはこだわりがなく、こだわりがないので恐怖におびえることなく、事物をさかさに捉えることなく、妄想に悩まされることなく、心は徹底して平安であります。
また、三世の諸仏は、ほとけの智慧を完成することによって、この上ない正しい完全な悟りを開かれました。
それ故、ほとけの智慧の完成はすばらしい霊力のある真言であり、すぐれた真言であり、無上の真言であり、無比の真言であることが知られます。
それはあらゆる苦しみを取り除いてくれます。
真実にして虚妄ならざるものです。
そこで、ほとけの智慧の完成の真言を説きます。
すなわち、これが真言です。
わかった、わかった、ほとけのこころ。
すっかりわかった、ほとけのこころ。
ほとけさま、ありがとう