淇洲駒 鳥海山黄楊    
     
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謎の淇洲書 鳥海山黄楊駒
本駒の玉将裏の画像をご覧下さい、淇洲書の銘の入った駒の木目はおよそ50本、もう片方はおよそ80本の木目を数えます。
一般に糸柾と呼ばべる駒は30本から40本もあれば糸柾と呼べ、長さ2.6cmの間に80本もの年輪を有する駒は非常に珍しい木地です。
本駒は伊藤駒と駒型が完全に一致しており、同じ工房の木地整形で、字母も伊藤駒と違いは見られません。
本駒は、1〜2局程度の使用痕が見られますが、ほぼ新品状態で漆や木地の劣化は見られません。
入手時には駒箱や駒袋は無く、駒のみで、駒木地の表面には粉が噴いており、作成されてからかなり年月が経ている駒であると判断できます
使用されている漆は、艶と濃い色合いがあり、用いられている漆は劣化が見られず、濃い漆である感じがします、他の漆とは違いが見られます。
マイクロスコープで見ますと細かな滲みが多数見られ、漆の滲みは、肉眼ではあまり目立たず、盛り上げ技術はかなり筆に慣れた者の作、例えば当時の蒔絵師等の手による物ではないかと思えます。
淇洲駒は、まず、竹内淇洲が自筆で紙に駒文字を書いてそれを、それを版木として用いたと桜井氏の調査で判明しており、淇洲の子駒である5組(伊藤駒の前の鉄砲屋鈴木浅吉の作)は、その版木を用いて駒を作成したとされており、一説では書き駒であるとも言われています。
彫埋か書き駒なのかは、彫埋の跡の有無を見つける事で見分けますが、本駒はほぼ新品で漆の欠損部分を見つける事が出来ず非常に困難です、そこで、マイクロスコープで500倍程度に拡大して、その痕跡の有無を見分ける事にしました。
下の画像は本駒の下地、及び盛り上げ、状態の一部です、盛り上げ時に下地が見える部分のマイクロスコープ画像です。(約500倍)
最初画像には先端部分に漆の欠損が見られますが、彫埋めた痕跡は見られません。
朱色の画像は木材にハンコを押して滲みの様子を撮影した物で、ハンコに朱肉を付けて押すと字型内の木地の水管に朱肉塗料が圧入される事による滲みの様子を写した実験画像です。

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上記の画像から本駒は下書は、版木を判子として、漆を版木に塗り、それを駒木地に押し当て文字を写し、その上に漆を盛り上げた駒であると考えられます、漆を塗った版木を木地に押す事で塗膜の圧迫により塗料が水管に入り込み滲みが発生したと考えられます。
以上の事から、本駒は書き駒であろうと判断しました。
さて、本駒の書体についてすが、淇州駒の資料によれば、基本的に淇州駒は二種類の版木が存在すると確認されます。
初版の版木は、淇州自筆の書を元に版木を作り鳥海山黄楊で5組作られたとされ、その内の一組を佐藤公太郎氏に贈られ所有しています。
次版の版木は、竹内淇洲の義理の兄にあたる酒田の実力者、伊藤四郎右衛門により、新たな版木がつくられたと記録に残ります。
初版から作られた駒と、次版から作られた駒の共通の違いは、かなり集中して見分けないと解らないレベルです。
また、伊藤駒と佐藤駒とは同一の版木が用いられているとの記録も残り、全て薩摩黄楊で作られたとされています。

本駒は初版の駒とは、僅かに異なる点が確認されます、初版の版木から作られた駒ではないと判断しました。
本駒は次版の伊藤駒と駒文字が同一であり、さらに駒木地整形も同一であり、使用漆も戦前の上質漆である事から、孫駒を依頼した伊藤四郎右衛門が、兄弟駒か子駒を基に、新たに版木を起こして、自身が所有する鳥海山黄楊で作らせた駒、即ち孫駒の伊藤駒の鳥海山黄楊の駒であろうと思われます。
また、駒製作の基本的な作成技法が、伊藤駒や佐藤駒の作者、斎藤如斎とは異なる事から鈴木浅吉の作ではと予想しますが定かではありません。

駒木地については、鳥海黄楊を唯一直接触り、駒にした現役駒師の、桜井和男氏(掬水)は、佐藤公太郎氏が所有していた鳥海山黄楊材の駒木地に、佐藤公太郎氏が所有する淇洲の兄弟駒や伊藤駒や佐藤駒を参考にし、竹内淇洲の嫡子竹内六郎氏の意見も取り入れ、幻の淇洲駒「錦旗の駒」を再現した駒師です。
その桜井和男氏(掬水)に本駒画像を送り、ご意見を求めました処、「鳥海山黄楊だと思います」との答えを頂き、さらに、佐藤公太郎氏が所有する各種の駒の資料や、竹内六郎氏の駒の資料など多数の資料を頂き、更に更に、江戸期の金龍の市川米案の楷書体「水無瀬写し」など多種に渡る資料を、ご協力して下さいました。
特に、何故に佐藤公太郎氏が、生涯をかけて「関根一三世名人の「錦旗」の駒が「淇洲書」と異なるのでは」との疑問を持っていたのか、その多くの疑問解明に役立ち、淇洲駒の兄弟、子、孫駒の佐藤、伊藤駒を見分ける方法にも役立ちました。桜井和男氏(掬水)のご厚意には深く感謝し、厚く御礼申し上げます。



佐藤駒 日本将棋連盟保存(斎藤如斎作)と同じ孫駒と思われる

本駒は上記の鳥海山黄楊の駒とは異なる時期に異なるルートから入手した駒です。
駒木地の厚さテーパー角度は伊藤駒と異なりますが、それ以外は駒木地整形や字母が全く同じ作品で、同じ整形治具と同じ字母から製作されております。
しかし、木地以外の製作方法や盛り上げ技術などは別人で誰の作とまでは言えませんが、淇州が斎藤如斎に依頼した佐藤駒の一作品であります。

本駒を見る限り、江戸期から伝わる日本伝統の高級盛り上げ駒の全ての技術が用いられており、江戸駒の豊島や奥野と同等に優れた盛り上げ技術で製作されており、昭和初期の駒作りの最先端が、実は酒田にも在ったと感じさせます。
上記の鳥海山黄楊の駒と本駒を見比べて下さい、駒文字を書として表現するか、図形として表現するかの違いを感じてもらえると思います。
画像の最期に0.3mm程の線に漆の欠損部分がありその拡大画像があります、この画像を見て駒製作者ならエっ!と思われるでしょう。
サビ漆に上質な白砥粉に透き漆が用いられており、駒職人ではなく漆器職人の技である事が見て取れ、駒木地には薄く拭き漆処理が施されております。
この処理は伊藤駒にも見られる処理で、古くは江戸期の金龍にも見られ、飾り棚、火鉢類、お盆の製作を得意とした如斎(斎藤兼吉)にとって下地処理として薄く拭き漆処理を施すのは当たり前だったようです。
漆の盛り上げは、先の鳥海山黄楊の作風とは見た目からも全く異なり、実際の駒製作技法も異なりますから、駒作成者が異なる事が判断できるでしょう。
盛り上げについては、好みもあるでしょうが、私は下の彫埋め跡を多少無視してでも書として盛り上げた、こんな盛り上げ駒が大好きです。
彫埋め跡を忠実に盛り上げる事も高度な技術や熟練が必要ですが、どうしても塗り絵に見えてしまい、個性も表現できません。

数々の残された淇洲駒の画像から、昭和22年9月14日に、佐藤公太郎氏から新品の淇州駒を譲り受けた、土岐田勝弘氏の所蔵する棋洲駒の書体や盛り上げのタッチも非常に良く似ており、画像からの判断では駒木地テーパー角度も本駒と同様で、おそらく同一作者の作品で、本駒は佐藤駒で間違いないと思います。
土岐田勝弘氏の所蔵する棋洲駒は、王将裏の「如斎作」「淇州書」の文字も新品状態で残されており、非常に達筆で、この駒こそ淇州直筆ではないか、と思うほど見事な揮毫です。

今回は淇洲駒の鑑定に、従来の駒整形や目視による漆の状態やスキャナー画像の比較重ね、漆の劣化、木地の劣化など外形上の目視検査のみの情報に頼っておりました。
従って、本駒二組の正体に判断を下す事が長年下す事ができませんでした。
しかし、マイクロスコープを使用する事で、始めて新な詳細な情報を得、今回の結論を得る事が出来ました。
下記マイクロスコープ画像は上記駒の筆の入りや出の拡大画像で、思った以上に製作者の技量が露わになり、下地の様子も暴露されています。
本駒作者は、決して盛り上げ技術が上手だとは見えませんが、漆の取り扱いに長けた人物である事は確かです。
但し、佐藤駒や伊藤駒の盛り上げ作者は決して一人ではなく、酒田界隈の蒔絵師や指物師の複数人が参加して、合計十五組の駒を仕上げたのではないかと私は推測しています。

淇州駒とは今も昔も「伝説の駒」として語られ、その実態に迫る事は非常に困難ですが、残された駒や書籍を調べる事で真実は見えてきます。
将棋に係る人は是非一度、竹内淇州の「将棋慢話」や佐藤公太郎の「みちのく豆本」等の書籍をお読み下さい、戦前の将棋界の様子が東京大阪から一歩距離を置きつつも将棋界に深く関与し、現在の日本将棋連盟へと発展して行った様子を知る事ができます。

駒は拡大して観賞する物ではありません、全体を見て味合うもので、マイクロスコープでの観察で駒の良し悪しを評価する物ではありません、しかしマイクロスコープで作者の技量や技法は誰でも観察する事が可能で、今後は多くの駒収集者に利用されるでしょう。
先人の駒師が試行錯誤し、その経験を次代に伝え残した技を再び次代に伝え残す事こそ伝統技術です、伝統技術を更に高め伝え残す事も駒師の仕事です。
現在は、この漆表現や歴史を現代駒師に求める事は難しくなってしまいましたが、逆にその復興に意欲を燃やす駒師も現れている事も事実です。

古い駒は高額に取引される古美術品ですが同時に歴史の証人でもあります、この様な古い駒を保存し、次代に残す事は駒保有者の勤めでもあると思います。

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