竹内淇洲・錦旗の駒           
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「錦旗」の由来は関根十三世名人の出世駒
竹内淇洲(本名・丑松、1947年没)山形県酒田の人。酒田の大地主の資産家で八段に推薦されるほどの棋力であり、政治、文学、囲碁などでも活躍、書や漢詩にも堪能であり、淇洲の『将棋漫話』は、将棋史の貴重な歴史資料となった。
その将棋漫話によれば。(要約)
明治17年頃より淇洲の祖父・伊右エ門(いえもん)は、将棋駒の製作に異常な情熱を燃やし、天下一品の駒を作ることが念願で金龍、真龍などの江戸駒にあきたらず、理想とする駒の製作に苦心した。黄楊の北限とされる地元田沢村の山中に自生する鳥海黄楊で駒を作ることを考え、酒田の書に堪能な松浦譲吉、市川平三郎に託して駒文字を書かせたが満足しなかった。
孫の淇洲が成人し将棋も強く書に一家を成すようになり、淇洲に書かせたところ会心のものであったので、孫の淇洲(22、23歳の頃)に駒銘を書かせた。しかし、すべての駒の完成を待たずに伊右エ門は逝ってしまう(明治三十二年)、そのとき「将来、名人になる人にこの駒を贈ること」という遺言を残した。
その後、関根金次郎七段(のちの十三世名人)が明治37年(1904年)、酒田に来て竹内家に滞在し対局した淇洲が、その人柄と棋才に深く感じ入り祖父の遺言の通りに駒を贈った。その後、関根はこの駒を用いると不思議と勝ち続け、その様が向かうところ敵なき「錦の御旗」である事から「錦旗の駒」と呼ばれ、関根名人の出世駒となり「錦旗の駒」と世にいわれた。
との内容で記されています。


世間に「錦旗の駒」の評判が広がるにつれ多くの駒師に模造される事となります、豊島龍山は関根名人に依頼して「錦旗の駒」の書体を模写してもらい、駒銘を「金龍書」として売り出しました。
奥野はこの豊島の金龍書が非常に良く売れるにつけ、奥野は駒師金龍が残した駒を模写して駒銘を「錦旗」として売り出したと推測できます。
佐藤公太郎氏の粋狂談義によれば昭和の当初に東京で錦旗と称する駒が売り出されたが、字形が金龍に似ていると証言しており、この事は奥野一香の「錦旗」の事と思われます。
さて、豊島龍山は何故昭和12年以降になって、わざわざ売れている豊島の「錦旗の駒」である「金龍書」から後水尾天皇御筆の写を「錦旗」としたのかは、単純に奥野一香の「錦旗」が沢山売れていたので、同じ駒銘である「錦旗」を求める人が多く、豊島も「錦旗」銘の駒を売り出す必要に迫れたのでしょう。
豊島は「錦旗」の後水尾天皇御真筆謹写は昭和6年に作成されており、昭和12年頃「錦旗」銘にした駒は、昭和6年の「後水尾天皇御筆謹写」とは書体に違いが見られず、全く同じ字母から作られております。その「後水尾天皇御真筆謹写」の書体は現在、天童将棋資料館に収蔵されております。

竹内淇洲は昭和5年から10年に掛けて大橋本家の駒箱と駒袋をわざわざ作らせ、主だった淇洲駒所有者に贈って「錦旗の駒」である事を証した事は、明らかに「錦旗の駒」に特別な思いを感じるものであり、当時「錦旗の駒」を偽る駒の横行に、将棋界の実力者であり有名人であった淇洲は「我こそが錦旗の駒の本家である」との主張であり証明であったと思われます。
当時、一般に売り出せば絶対に売れる淇洲書の「錦旗の駒」ですが、淇洲は決して承諾しなかったのでしょう将棋界の伝説となるエピソードは彼ら関根名人、竹内淇洲、両巨頭の講演の種です。「本当の錦旗の駒書体は竹内淇洲による淇洲書である」とね。


下記は淇洲駒の解説です。
竹内淇洲の「将棋漫話」、佐藤公太郎の「みちのく豆本」「粋狂談義」、佐藤健一の文化出会学、を参考に要約しましたが、書かれている内容に相違があり、伝説となって正確には現在も判明しておりません。

淇洲駒と兄弟駒
伊右エ門が鳥海黄楊で駒にしたのは指物師・鉄砲屋亀斎こと鈴木浅吉に十数組の木地を作らせ松浦譲吉、市川平三郎と山口半峰、そして淇洲に肉筆で書かせた四組の駒、次に(明治三十二年以前)伊右エ門死亡後(明治三十二年以降)に淇洲肉筆で二組の駒が作られ、棋洲家で六組作られた事になり、内三組は棋洲肉筆の駒である。但し、棋洲肉筆の三組の肉筆の駒尻は無銘である。
竹内家に受け継がれた駒(本間美術館蔵)(壱)と佐藤公太郎氏所蔵の駒(参)、関根名人に贈った駒、の淇洲の肉筆駒の三組は既に判明している。
関根名人に贈らた淇洲肉筆駒とされる駒は甥の渡辺東一八段、安宅英一氏に渡り所在不明となりロストしている。
残りの駒三組の内、祖父伊右衛門の棺に納めた駒、贈与先不明の二組の駒の三組であるが、これは棋洲駒ではない。
従って、鳥海黄楊の駒木地は残り五組以上が残されたと思います。
竹内家に受け継がれた駒(壱)は現在本間美術館に蔵され、(参)の駒は佐藤公太郎氏が所蔵しています。

淇洲駒の子駒
その後、鉄砲屋鈴木浅吉(鉄砲屋亀斎)が作った残りの鳥海黄楊木地の五組で淇洲肉筆の文字を版にして下刷りし、その上に漆で書く書き駒を作り、大崎八段、溝呂木光治七段、木村義雄八段(当時)、S氏、K氏などに贈られたと伝えられ、鳥海黄楊の駒は全部で11組が作られ。内八組が棋洲駒です。
竹内淇洲が木村義雄名人に贈られたのは、大正15年10月に贈ったと記録が残りますが、しかし、後に木村義雄名人に贈られた駒は薩摩黄楊であり孫駒の伊藤駒ではないかと、事実関係に疑問が残ります。
近代三斎の一人と言われた鉄砲屋鈴木浅吉は昭和2年11月に亡くなりました。

淇洲駒の孫駒
竹内淇洲の義理の兄にあたり酒田の実力者、伊藤四郎右衛門により、新たな版木「錦旗の駒」を作らせ、これで薩摩黄楊を用いて彫り埋め盛り上げ駒を七組作ったとされる、これが世に言う「伊藤駒」で、全部で十五組の棋洲駒が存在する。
本伊藤駒は駒尻に彫銘で棋洲書と彫られています、(書の書体は行書風)。

佐藤公太郎氏の粋狂談義によれば、上記伊藤駒の他に佐藤公太郎氏の懇願により、昭和九年頃から、斉藤如斎(兼吉)に淇洲駒の増作を依頼して、薩摩黄楊で十四、五組が作られた。
製作した駒のほとんどは棋友に分けたと書かれている。この時用いられた版木は伊藤駒に用いた版木で製作されたといわれてます。
内二組は肉筆で揮毫してもらっい佐藤公太郎氏はその1組を昭和22年9月14日に、新品の淇州駒を土岐田勝弘氏に贈りました。
伊藤駒の銘は彫銘ですが、佐藤駒は棋洲書と如斎作とが玉将尻に肉筆で記されています(書の書体は草書と行書混在)。
佐藤公太郎氏の駒は現在日本将棋連盟に残されています。

以上の三種類30組の駒を淇洲駒と言い淇洲は日本一の駒と自慢し、巷に模倣された錦旗の駒と区別する為に昭和五年から昭和十年に大橋家本式の型と称する駒箱(斉藤如斎作)に淇洲肉筆の添書きと落款をしたため、また緞子の将棋盤絵柄に駒の絵柄を刺繍した淇洲特製の駒袋を仕立屋松兵衛に作らせ、淇洲駒所有者に贈り「錦旗の駒」である事を証した。
駒箱と駒袋は全ての駒の所有者に贈られたのではなく、数名の近しい者のみに贈られていたようで、現在5種類の駒箱の裏書きが存在する。
参の刻印が押された駒は二組存在します。
現在知り得た範囲では、残されている駒箱は全て斎藤如斎作だと思われます、鉄砲屋亀斎の作成した駒箱は別に現存されており、同じ組技法ですが作風や寸法が異なるようです。
駒袋の作者、松兵衛は「能の袴を仕立てると、仙台平などは畳の上に倒れずに立つ」と云う位の熟練者名人といわれます。
駒箱は、一見の価値があり、材料の桐も最上級の柾目材が用いられており、博物館並の作品です、現在では同等作品を作れる指物師はいないでしょう。


本駒箱の添書き
130/105.5/54
錦旗 勝浦(勝彌)作
此ノ駒箱ハ大橋家本式ノ型ト称スルモノナリ
乙亥(昭和10年)初冬 淇洲 落款印 認

ここで、最初の行「錦旗 勝浦作」について、当初駒作者か駒箱作者だろうと調査をしたが心当たらず、専門棋士の勝浦松之助は駒製作の記録も遺作もなく、作者としての特定は出来なかった。
そこで「勝浦」は作者名では無く別の意味ではないかと捉え調べる事とした。
勝浦といえば千葉県の勝浦を思い出すが、調べてみると実は淇洲の地元酒田にも勝浦の地がある。
酒田港から北西39kmの沖合にある山形県唯一の有人島の飛島は、周囲 10.2km、人口 275人の日本海の孤島で、この島の南東側に勝浦の地があります。飛島は酒田市に所属する島で、飛島には勝浦港や勝浦甲、勝浦乙などの地名は今でも残っています。
何とその飛島はその昔、鳥海山の山頂が噴火によって吹き飛び、それが日本海に落ちて島になったという伝説があり、飛島の名前もそれに由来している。島内に祀られた小物忌神社 (酒田市飛島)は、鳥海山大物忌神社と対をなして、地元の人間ならば皆が知っている有名な伝説です。
当然に地元の淇洲もこの伝説を知っており、勝浦作を作者ではなく、この飛島誕生の故事「鳥海山噴火により出来た勝浦の地」に習い、「鳥海山の黄楊で作った錦旗の駒」に由来する駒、即ち「錦旗の駒の子孫」と同じ意味で「勝浦づくり」としたのだろうと思います。
文豪でもある淇洲がいかにも考えそうなネーミングではありませんか。おそらく淇洲が伊藤駒の事を聞かれる都度、「錦旗 勝浦作」と言って、意味を皆に聞かれたら、飛島の由来と伊藤駒の由来を重ね合わせ一席語る良いネタとし、単なる写し駒以上の価値を伊藤駒に与えたかったのでしょう。
これが、私は「錦旗 勝浦作」が記せられた意味であろうと思います。
また、駒箱は淇洲の「将棋漫話」の中で「対局の作法と駒盤の寸法」に書かれている駒箱と同じ大橋家本式の作法で作られており、組み木や継ぎ手などの技法や木目の合わせなど非常に精巧で、駒箱ひとつにも目を見張るものがあり当時の名工の技が光ります。駒箱は名工斉藤如斎の作です。

本作は「棋洲駒の孫駒」のうちの一作で間違いありません。


一般に販売された淇洲駒
戦後まもなくの頃(昭和21年)、山形の強豪将棋指しである遠藤弥太郎に、竹内淇洲は新たな肉筆の字母紙と香園銘を贈り淇洲駒の製作販売を許した。
弥太郎は「駒乃家」という屋号で駒の製作製販を行った。
「香園」は(駒師の銘ではない)遠藤弥太郎の営む「駒乃家」の駒製作のブランド名として用いられ、金井静山の手と思われる「香園」水無瀬書の盛上げ駒なども存在する。
この時の若かりし堀駒の職人達は、後の天童や東京の有名駒師となり、将棋製作発展の礎となったようです。
以上が淇洲が直接関与して作成された淇洲駒であり、錦旗の駒の淇洲書です。
香園の淇洲駒を参考にしてください。



「錦旗」の駒「棋洲書」を模倣した多くの駒

金龍書
一番有名な模倣駒は、豊島の金龍書です、関根名人所有の「錦旗」の駒である棋洲駒を関根名人自らが写して豊島太郎吉に渡し、豊島が駒にして販売したことにより、「錦旗」の駒として広まり、大正から昭和には大量に全国各地に販売され、一躍、豊島龍山の名を全国区にしました。


木村名人書
木村名人の実弟である木村文俊による木村名人書も、名人自身が所有する、竹内棋洲より贈られた伊藤駒を写して実弟である木村文俊に作成させたのが、木村名人書で木村氏のアレンジによる棋洲書の写し駒です。

昇竜書
奥野商店の下職を務めていた松尾昇竜が残した書体が昇竜書と言われます。
昇竜書体は、奥野商店にも渡していない書体で、奥野作品では販売した記録はありません。
又、松尾昇竜氏は駒を決して自身の銘を入れて製作する事はありませんでした。
松尾昇竜氏が所有していた字母紙を、大竹治五郎氏に渡し、大竹氏が昇竜書として販売した事により現在では有名な書体となりました。
実は、昇竜書体は、十三世関根名人の依頼により所有していた淇州駒を写した書体なのです。

この昇竜書について、昭和18年頃十三世関根名人が支援者に贈られた無銘の駒を入手出来ましたので調査しました。
その駒は書体・作者共に無名ながら、豊島工房製の木地に奥野風の漆で製作された駒であり、書体は棋洲書が書されており、大変に出来の良い駒で、豊島龍山あるいは奥野一香の作品或いは棋洲駒ではないかと持ち込まれました。

まずは作者の推定ですが、この時期(昭和18年頃)の木村文俊は徴用工としてネジ作りの軍需工場に徴用されてしまい駒の製作は出来ず、戦前の奥野や豊島など高名な駒作者は既に死亡しており、製作依頼出来る職人がいません。
もちろん、大竹氏は新潟に疎開中であり、この時期には盛り上げ駒の技術は持っておりません。
そこで、まずは木地の入手は、豊島の遺族や宮松から、十三世関根名人の要望ならば入手可能であったろうと思います。
書体は十三世関根名人が「錦旗の駒」淇州駒を所有していましたから、作者に模写させても何ら不思議ではありません。
当時東京駒を製作販売駒していたのは、中村碁盤店くらいしかありませんでしたので、自身が所有する棋洲駒を手本とした駒の製作を依頼し、外職であった松尾昇竜氏の製作した駒であったろうと推測しました。
と言うのも、私の所有する棋洲駒の伊藤駒との異なる点が数か所(詳細は発表しません)あり、その他は全く同じであり、ほぼ書拓した駒であった事を確認しました。
更に写しミスでの異なる点の全てが、初代大竹氏の昇竜書作品にも全て同様に一致しており、その他は棋洲書と同じであったのです、従って基本的字母は大竹氏が昇竜書とした字母と同一であると確認できます。
松尾氏は中村碁盤店の潜龍銘で外職の駒作りをしていた最中です、そして後年、大竹氏に再会し、この棋洲書写し字母を大竹氏に渡してしまい、大竹氏は書体の由来を知らず、松尾昇竜氏から譲られたので昇竜書としたものです(同時期に奥野錦旗や雛駒字母も渡したのでしょう)。
戦後、松尾昇竜氏から譲られた書体は2組(淇州書・奥野錦旗)共に書体銘を同じ「昇竜書」として販売した為、多くの駒製作者や販売者達が混乱してしまったのです。
昇竜書体が「錦旗の駒」淇州書を忠実に模倣した書体である理由が本駒を詳細に調査して、やっと理解できたのです。
また、奥野の外職時代に奥野からこの棋洲書の駒を売り出せば必ず売れたのに出せなかった理由も理解できました。
戦前戦中の著作権の権利保存や師弟関係の掟すら無視されていた、将棋界の特殊な時代に起こった事なんでしょうね。

眞玉
中村碁盤店の潜龍での「眞玉」は中村碁盤店店主の習字の師匠の名との事ですが、昇竜書や店主オリジナルの書体のものが混在しています。
中村碁盤店の潜龍は、大竹氏、静山氏、松尾氏が駒製作を行っていたと言われており、書体銘と書体は一致しない物もあり混乱混同しており、それぞれの作者が勝手に書体銘や書体を決めて製作して中村碁盤店に持ち込んでいたのでしょう。
この当時から駒師が駒史や書体の研究などせず、ただ単に入手できる字母で駒を作成していたのです。

淇洲書
昭和58年の頃、佐藤公太郎氏は桜井和男(掬水)に淇洲駒の復活を試み淇洲のご子息竹内六郎氏の助言を得ながら淇洲書の字母を作り、佐藤公太郎氏が所蔵する鳥海黄楊の木地2組で桜井和男氏が淇洲書駒を作りました、持ち込まれた鳥海黄楊駒木地は非常に細い原木から作られ、殆んどの駒に芯が含まれていたそうです。
以降、この字母は桜井和男(掬水)氏により淇洲書として引き継がれている。
棋洲書としては上記の中でも一番オリジナル(伊藤駒)に近い雰囲気を持つ作品だと、私見ですが思っています。



補足

鉄砲屋 亀斎(てっぽうや・きさい)
指物師。本名・鈴木浅吉。若いころから器用で指物を習得。あとで神経痛を患って足腰が不自由になり、通りに面したところで座位のまま作業に専念していた。作品は小タンス、小机、針箱、硯箱、飾り台など小物類が主で絶品、珍重されていた。亀斎の技術はのちに国立博物館から近代木工界「三斎」として、高く評価された。文久3(1863)年に生まれ、昭和2年に65歳で死去した。


斉藤如斎は指物師で斎藤与惣右衛門の六男(明治16年生)、父のもとで修行し、のちに地元酒田の名匠・鉄砲屋亀斎と、後藤又助に弟子入りしてみっちり修行した。明治44年名古屋で開かれた共進会を視察して見聞を広め、大正7年に上京、指物の権威者といわれた前田桑明や工場長をしていた須田桑月に師事した。大正8年、山形工業試験場木工科職工長に招かれて県内各地で木工を指導、大正10年酒田に戻って指物業を始めた。酒田で皇族方に対する献上品の製作を担当し、大正13年のパリ万国博に出品した食器棚が入賞している。昭和45年8月、87歳で死去した