木村文俊作・錦旗    
                   写真をクリックして下さい

木村作品は駒一杯の駒文字で迫力があります、木村の錦旗は豊島錦旗(後水尾)や奥野錦旗(金龍?)に対抗して木村錦旗(安清)を作ります、本駒書体の錦旗が木村オリジナルの錦旗書体です。
彼が錦旗の駒を作るにあたり、師匠であった豊島の錦旗を参考としながらも、コピーではなく独自に作った錦旗は、木村の個性が光った、メタボリックながらカッチリと、しかもピンピンした彼なりの個性がこんな錦旗になったのでしょう、何とも木村らしくてカッコ良いではありませんか、実に実戦向きな書体です。
戦前には師弟関係にある者以外には、同世代の他人の開発した書体に同銘を付けて販売する駒師はおりませんでした。駒師としての毅然としたルールやモラルがあったようで、模倣駒を販売する事は恥だったのです。
豊島と木村には師弟関係があり「金龍」「清安」などは木村銘を付す事が許されていたようです。

本作は昭和30年以前の作品で、漆の盛り上げはべったりとした感じのいかにも木村らしい盛り上げですが、木村の盛り上げは製作時期や季節によって多少気まぐれでが、豊島での修行時代に、全工程をみっちり指導を受けていないからこそ逆に豊島とは違う彼の個性が発揮され、味となっているのではないでしょうか。
また、終戦当時の木村にとって駒師としての年季は静山や宮松など足元にも及ばない程の経験を有していましたし、兄の木村名人の威光もあり自他共に一番を自負していたものと思いますし、事実上、戦後は当時一番の駒師です。
1963年東京新聞社発行の「名人」によると、木村は戦時中には徴用工としてネジ作りの軍需工場に徴用され、また兄の威光で兄の講演旅行に同行したりして過ごし駒作りは中止しており、終戦直後には愛娘を急性肺炎で亡した事により、気力も失いブラブラと無駄に過ごし結局、昭和17、8年から昭和24年頃までは駒作りをしておりません
駒作り復帰後、兄木村名人の名声にもあやかり、一時期には、あまりの人気に駒製作が間に合わず、天童に彫を外注する程の人気で、木村錦旗書体以外に豊島錦旗書体の錦旗書も作り、今日に数多く残されていますが、しかし、木村錦旗はこの安清似の木村錦旗が昭和24年以降〜昭和30年以前に製作された本当の木村オリジナルの錦旗です。

後水尾天皇御宸筆写とは水無瀬駒の写し
木村義雄十四世名人は将棋界では無類の将棋駒収集家であり、豊島の錦旗が後水尾天皇御宸筆写である、と、一般に思われていた事に常々疑問を持っておりました。
実は、木村名人は「伝後水尾天皇御宸筆写」の駒を所有しておりました、その駒は、無銘ながらまさしく水無瀬書体の駒であり豊島錦旗とは異なっていたのです。
徳川家康は「水無瀬の駒を宝とす」と申し渡しましたが、水無瀬の駒は書き駒ですから、使用すれば、数年で駒文字は消えてしまい、後年には駒が消耗されて水無瀬書駒が残りません。
そこで、寺社奉行管轄で水無瀬駒の写し駒を作れる者を特別に認定して後世に伝え、残す事にしたです。
当時、後水尾天皇は筆が堪能で有名であり格式も高位であった事から許可され、水無瀬駒の写しを作ったかも知れません。
ですが、後水尾天皇御宸筆写は水無瀬書体の写しなのです、水無瀬書の写しであれば幕末期の、清安、安清、の書体も水無瀬写しです。
木村義雄十四世名人は、伝「後水尾天皇御宸筆」を所有しておりました、が、「威厳を持たせる為によくある話で、実際には水無瀬駒」と語っております。
豊島錦旗が本物の錦旗と世に思われたのは、模倣駒師である、静山や影水が駒文字の知識や伝統も無く、只、単に豊島が残した字母帳を用いて、自分の作品に威厳を持たせた話であると陰に語っております。

戦後のこの頃の木村の作品は素晴らしい作品が数多く残されており、木村の絶頂期で、静山は勿論宮松も足元にも及ばない日本一の駒作者でした、技術的にも豊島の修行時代の掟を守り、作成しましたので漆の欠けなどは起こしません。
後年になり、非常に好調な注文による慢心からか、外職の彫の作品や手抜きの作品が多くなり、漆が欠ける駒が多くなる事が悔やまれます。

当時は、豊島龍山の後水尾天皇御宸筆写しの駒を、潜龍、静山、宮松、などの多くの駒作者が錦旗として模倣した事により、昭和30年代の頃から「錦旗」は豊島錦旗が本物とされ、それ以外の錦旗は偽物呼ばわりされ、作成しても売れず、返品されてしまいました。
それは、宮松の誤った認識により龍山字母こそ本物の「錦旗」との流布により偽物呼ばれてしまい、結局、錦旗の書体は、宮松影水が言った事を真に受けた山本恭介(天狗太郎)の不見識により書籍などで発表されて、宮松や静山が取り扱う豊島錦旗こそが本物と伝えてしまいます。

この点は、木村氏には頑固に守り通して欲しかったのですが、商売上売れない駒を作っても仕方なく逆らえなかったのでしょう。
戦時中、中村碁盤店による潜龍銘で、松尾、竹風、静山などの当時中途半端な駒師が集結して無知なまま駒を作ったからこそ書体が混同してしまった始まりなのです。
本駒の木村錦旗は、木村のオリジナル書体で、いたる所に彼の工夫がみられ、現在は殆んどこの書体の錦旗を作る作者はいませんが、淇洲、豊島、奥野、木村の錦旗書体が代表的な四種類の錦旗書体です。
現代駒作者が錦旗駒を作る場合には豊島錦旗しか知らないのではなく、この四種類の錦旗を参考にして下さい。
「錦旗」とは駒師が、お客様が連勝できる駒としてお勧めする駒で、「錦旗」は書体銘ではなく商品名なんです、間違っても「錦旗書」と入れないで下さい。
静山、影水はおろか現代駒作者が豊島錦旗書体に錦旗銘を入れて販売しておりますが、本物の豊島作の「錦旗」を見た事も無いと私は思います。
中国製のブランドバッグみたいなもので、知らずに購入した消費者が気の毒です。
写し駒を作るなら、写す駒のオリジナル作品をじっくり観察して下さい、それから、駒に誰の錦旗の写し駒、と明記すべきですね。

生前の木村師にお会いしたコレクターの話によると、木村の左手を触った時、その左手は足の裏どころか鉄板の様に硬かったと語っておりました、駒師として、戦前戦後の昭和を代表する名工の一人なのです。
木村の量産品ではない、作品を是非手に入れて下さい、木村文俊は、宮松や静山以上に評価されるべき名工なのです。


木村文俊作・木村名人書

木村文俊(1908〜1984)、木村名人の実弟、兄の紹介で13、4歳、大正12年の頃、豊島龍山に弟子入りするも修行のかわいがりに耐え切れず年季明け直ぐに21歳昭和4年の頃に独立。昭和59年76歳で亡くなるまで駒を作り続けた。
弟子入りしてから7年では戦前の職人の世界では、仕事を覚えた後は最低でも5年のお礼奉公を勤めるのは常識の時代ですから、いかに将棋棋士の威光に駒師は弱かったのか推測できますが、多少豊島のかわいがりも酷だったようです。
それでも、知る限りでは、豊島の弟子としては静山(バイト1年程)よりはるかに長く勤めた豊島の一番弟子ですから、木村があと11年我慢して奉公していれば、木村は三代目龍山を継いだかも知れませんが、我慢できない性格が木村の個性でもありますからきっと無理ですよね。
わがままな木村ではありますが、逆にその強い個性を発揮して素晴らしい作品を残し、昭和の名工の一人に数えられます。

本作は多くの作品の中でも、兄の木村義雄十四世名人が書いたとされる木村名人書は、彼を代表するオリジナル作品の一つです。
木村名人書は兄の木村名人を通じて販売され、木村作品の中でも高級品でした、ですから伝統の作成方法を守った丁寧な作品ばかりです。
名人経由の作品には桑の駒箱と縮緬生地の駒袋をセットにして販売されていたようで、必ずこの駒袋と駒箱に入れられています。
普及品の木綿製の駒袋は将棋連盟で販売していましたので、おそらく縮緬生地の駒袋も将棋連盟を通して販売されていたと思われます。
本作は、兄である木村名人経由で納める作品なだけに丁寧な作りで木村の魅力満載の作品で、書体の元字は伊藤駒の淇洲書を元字にしおり、前十三世名人の関根自筆の淇洲書である豊島金龍の例に倣い、伊藤駒の淇洲書を木村流に写したこの駒木村名人書は、云わば、は木村版の「錦旗の駒」ではないかと思います。
木村作品を求めるならこの書体の駒を求める事を進めます、駒にもよりますが200万円以上でも決して不思議ではありませんよ。

金龍・戦前の彫駒

金龍・戦前の盛り上げ駒

 金龍・戦後の盛り上げ駒

どこか田舎臭い豊島金龍(淇洲書)の書体も木村の手に掛かると、何と、ご覧のように逆に豊島金龍とは思えない程洗練された書体となりました。
縦長の駒形にとても良く似合う木村金龍です。木村もこの金龍にたどり着くまで少なくとも3回は金龍の字母を変えています。私は、この木村の金龍書が一番実践向きで洗練されていると感じます。
駒形や銘から後期の作品です。前期の金龍作品は野武士のような駒ですが、この木村の金龍はとても上品です。
一見、木村作品とは思えませんが、何と言っても見易く、鍛えられ、宮松に負けないデザイン性の高い豊島金龍となっており、木村作品の中では私には一番のお気に入りです。
前期の木村と後期の木村とでは全く別人の作品かと思えるほどの変化が作品には見られますが、それが木村の謎めいた魅力で個性かと思います。

影水や静山は豊島の残した字母紙に忠実に駒を作りますが、字母紙はあくまで書体骨格ですから書体としての味はありません。
後年、影水はこの木村の感性を見習い豊島字母に手を加えたのです。



       木村作・玉舟書  (奥野錦旗の写し)
木村盛り上げ書体

外職の作品


上記2作品の彫駒は共に木村の玉舟書ですが実は、木村本人の彫ではありません。
木村の玉舟の盛り上げ作品は上段の書体が用いておりられており、盛り上げ仕事は木村本人による仕事です。
上段や下段の駒は、「銀峰」又は「竜真」又は「真竜」の銘を持つ作者によって作られた作品で、外職が彫った駒です。
ある人の話では「 ――戦前の1940年ころに、木村のところで駒彫りを手伝っていた大学生の岩崎隆真(いわさきりゅうしん) という方が、大学卒業後、真言宗智山派金蓮院の住職となる。その後も副業として、1960年代前半まで彫った駒(玉舟)を、木村に納品していたという。現在でも、隆真の遺族のところには、「玉舟」の字母のハンコが残されている――」との事で、彫作者は岩崎隆真です。


また、木村の彫の特徴も多くの方が木村の彫としているようですが、木村本人の彫駒としての作品は少なく、彫駒や堀埋め駒は岩崎隆真の外職の作品と思って良いでしょう。
駒形については時代と共に細長い俗に言われる木村型となりますが、同時に彫埋めの手抜き作品も多数見られます。

玉舟書は木村のオリジナル作品としても有名ですが、元字は奥野錦旗とほぼ同じ書体で、片玉や龍馬や銀将と桂馬の裏字が異なる程度で、奥野錦旗の模倣、或いは、江戸期金龍の駒の写しですが、岩崎隆真は木村が駒作りを中止していた戦中戦後の一時期には中村碁盤店の外職をしていた様で、「昭玉書」の彫駒作品も残り、奥野錦旗→昭玉→玉舟へと変化書体で、模倣を繰り返した書体で、木村らしいピンピンした表現もありません。
しかし、盛り上げ駒は木村らしいピンピンした書体に仕上げており、漆作業に手抜きもなく良い作品が残ります。