木村文俊(1908〜1984)、木村名人の実弟、兄の紹介で13、4歳、大正12年の頃、豊島龍山に弟子入りするも修行のかわいがりに耐え切れず年季明け直ぐに21歳昭和4年の頃に独立。昭和59年76歳で亡くなるまで駒を作り続けた。
弟子入りしてから7年では戦前の職人の世界では、仕事を覚えた後は最低でも5年のお礼奉公を勤めるのは常識の時代ですから、いかに将棋棋士の威光に駒師は弱かったのか推測できますが、多少豊島のかわいがりも酷だったようです。
それでも、知る限りでは、豊島の弟子としては静山(バイト1年程)よりはるかに長く勤めた豊島の一番弟子ですから、木村があと11年我慢して奉公していれば、木村は三代目龍山を継いだかも知れませんが、我慢できない性格が木村の個性でもありますからきっと無理ですよね。
わがままな木村ではありますが、逆にその強い個性を発揮して素晴らしい作品を残し、昭和の名工の一人に数えられます。
本作は多くの作品の中でも、兄の木村義雄十四世名人が書いたとされる木村名人書は、彼を代表するオリジナル作品の一つです。
木村名人書は兄の木村名人を通じて販売され、木村作品の中でも高級品でした、ですから伝統の作成方法を守った丁寧な作品ばかりです。
名人経由の作品には桑の駒箱と縮緬生地の駒袋をセットにして販売されていたようで、必ずこの駒袋と駒箱に入れられています。
普及品の木綿製の駒袋は将棋連盟で販売していましたので、おそらく縮緬生地の駒袋も将棋連盟を通して販売されていたと思われます。
本作は、兄である木村名人経由で納める作品なだけに丁寧な作りで木村の魅力満載の作品で、書体の元字は伊藤駒の淇洲書を元字にしおり、前十三世名人の関根自筆の淇洲書である豊島金龍の例に倣い、伊藤駒の淇洲書を木村流に写したこの駒木村名人書は、云わば、は木村版の「錦旗の駒」ではないかと思います。
木村作品を求めるならこの書体の駒を求める事を進めます、駒にもよりますが200万円以上でも決して不思議ではありませんよ。
金龍・戦前の彫駒
金龍・戦前の盛り上げ駒
金龍・戦後の盛り上げ駒
どこか田舎臭い豊島金龍(淇洲書)の書体も木村の手に掛かると、何と、ご覧のように逆に豊島金龍とは思えない程洗練された書体となりました。
縦長の駒形にとても良く似合う木村金龍です。木村もこの金龍にたどり着くまで少なくとも3回は金龍の字母を変えています。私は、この木村の金龍書が一番実践向きで洗練されていると感じます。
駒形や銘から後期の作品です。前期の金龍作品は野武士のような駒ですが、この木村の金龍はとても上品です。
一見、木村作品とは思えませんが、何と言っても見易く、鍛えられ、宮松に負けないデザイン性の高い豊島金龍となっており、木村作品の中では私には一番のお気に入りです。
前期の木村と後期の木村とでは全く別人の作品かと思えるほどの変化が作品には見られますが、それが木村の謎めいた魅力で個性かと思います。
影水や静山は豊島の残した字母紙に忠実に駒を作りますが、字母紙はあくまで書体骨格ですから書体としての味はありません。
後年、影水はこの木村の感性を見習い豊島字母に手を加えたのです。
上記2作品の彫駒は共に木村の玉舟書ですが実は、木村本人の彫ではありません。
木村の玉舟の盛り上げ作品は上段の書体が用いておりられており、盛り上げ仕事は木村本人による仕事です。
上段や下段の駒は、「銀峰」又は「竜真」又は「真竜」の銘を持つ作者によって作られた作品で、外職が彫った駒です。
ある人の話では「 ――戦前の1940年ころに、木村のところで駒彫りを手伝っていた大学生の岩崎隆真(いわさきりゅうしん) という方が、大学卒業後、真言宗智山派金蓮院の住職となる。その後も副業として、1960年代前半まで彫った駒(玉舟)を、木村に納品していたという。現在でも、隆真の遺族のところには、「玉舟」の字母のハンコが残されている――」との事で、彫作者は岩崎隆真です。
また、木村の彫の特徴も多くの方が木村の彫としているようですが、木村本人の彫駒としての作品は少なく、彫駒や堀埋め駒は岩崎隆真の外職の作品と思って良いでしょう。
駒形については時代と共に細長い俗に言われる木村型となりますが、同時に彫埋めの手抜き作品も多数見られます。
玉舟書は木村のオリジナル作品としても有名ですが、元字は奥野錦旗とほぼ同じ書体で、片玉や龍馬や銀将と桂馬の裏字が異なる程度で、奥野錦旗の模倣、或いは、江戸期金龍の駒の写しですが、岩崎隆真は木村が駒作りを中止していた戦中戦後の一時期には中村碁盤店の外職をしていた様で、「昭玉書」の彫駒作品も残り、奥野錦旗→昭玉→玉舟へと変化書体で、模倣を繰り返した書体で、木村らしいピンピンした表現もありません。
しかし、盛り上げ駒は木村らしいピンピンした書体に仕上げており、漆作業に手抜きもなく良い作品が残ります。