本作は大正期の増田弥三郎による作品と思われ、駒銘は「芙蓉・花押」となっております、明治期の作品と比べますと駒形は大きく大正期の駒としては王将3.0cm厚さ9.5mmと厚みがあり江戸期からの伝統を引き継いだ駒型です。
筋彫も多少深くなりますが、非常に細い線の中にも書としての抑揚が見られ本画像で見る以上に良い印象の駒です。
高浜禎の覚書帳にも大正6年の2月中頃には芙蓉の駒を大型彫駒と表現しており、所有駒を金沢伝一氏に贈呈したと、記録されております。
大正期の駒としては厚く、時代的にはかなり大型の駒と感じます。
関西の将棋指し、阪田三吉は小説や歌にも歌われた有名人ですが、坂田三吉と増田弥三郎は非常に懇意で、坂田三吉はこの芙蓉の駒を好んで用いていました。
この大正時代では大型の駒は、実は坂田三吉は視力が悪く、坂田三吉の要望でもあったのです。
当時の関東風の駒とは明らかに異なる駒作りであると感じさせる作品ですが、江戸末期に江戸幕府寺社奉行管轄の高貴な人達に愛用された、安清一派の駒の伝統を、色濃く受け継いだ駒なのです。
さて、本駒は細字の彫駒として大阪彫の一つの完成形と言えるかも知れません、明治期の駒も含め細字書体として、充分に観賞価値のある駒で、その芸術性は高く評価すべきと思います。
また、水無瀬書体が安清書体へと発展し、そして芙蓉書体として変化しますが、本書体は安清書体そのものです。
初代芙蓉の弥三郎と二代目芙蓉の虎造とは随分と作風が異なり、画像で見る以上に本駒の細字の彫駒は繊細で独特な味があります。
今日に残された多くの芙蓉の普及駒は、多くの職人達によって作られ全国各地に出荷されましたが、親方である弥三郎のこの様な彫り駒の評判により芙蓉ブランドは支えられていたのだと思います
同時代の小林重次の略字彫駒と比べても増田弥三郎の細字書体は魅力的で、同じ細字彫でも弥三郎の方が上手に感じます。
あの坂田三吉も好んで弥三郎が作った大型で細字書体の芙蓉彫駒で腕を磨いたのです。
芙蓉・花押 水月(増田虎造)
水月は増田弥三郎の息子で信華の弟と言われ本名は増田虎造といい二代目増田開新堂店主となります。
本駒銘は「芙蓉・花押」ですが弥三郎の花押とは異なる花押を用いており、「水月」の銘は二代目芙蓉・虎造の銘です。
二代目芙蓉の虎造は大正末期あるいは昭和初期から昭和30年頃まで駒製作を行ったと思われます。
大正の頃には駒生産は好調で、職人も相当数を雇い大量に販売していたと思われますが、昭和初期には彫駒の産地として天童がその地位を奪い始め、安価な天童駒によって大阪彫の職人達は廃業へと追いやられます、虎造も例外ではなかったようで、高級彫駒として伝統の安清書体ばかりではなく東京駒書体を模倣した駒も作るようになりますが、彫駒は天童により大量安価に作られ略式書体も模倣され、戦後には彫駒の生産は天童に完全に押されてしまいます。
本駒は伝統の水無瀬型安清書体ですが、彫は初代芙蓉とは異なり細字彫ではありません。
彫そのものこそ初代とは異なり太字ですが書体は初代同様の伝統の安清書体を引き継いでおり、関東風の盛り上げ駒に対抗した彫駒となっています。
駒形も初代の厚駒から普通の関東風の厚さとなりますが、天童や関東の彫駒とは異なり書体に虎造の強い個性が彫込められております。
昨今のコピー駒とは異なり駒に個性を発揮した最後の安清系の駒師ではないでしょうか。
多くの職人達により芙蓉の将棋駒は作られますが、略字書体は天童に模倣され、戦後、天童の商業主義による機械化によって将棋駒の価格は低下し、伝統の大阪彫駒も東京彫駒も廃れてしまいます。
今日残された多くの芙蓉駒の並彫は外注により製作された物と思われ、駒形や書体がいかにも安価な駒となります。
大坂彫駒の伝統は重次や駒権によって独特な深彫駒となり発展していき彫駒の新な魅力を発揮していきます。
単純に大量生産されたコピー駒とは異なり駒の歴史を刻んだ彫駒の魅力はこんな処にあるのではないでしょうか。