安清・花押 (天童草書体のルーツ)    
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平成16年・発行・桜井和男(掬水)氏著者「玉庭駒」調査報告書に天童草書体の元となった駒として紹介された駒です。
「玉庭駒」調査報告書では、本駒と玉庭駒(藤田宥宣氏所蔵)と天童草書体駒(天童市将棋資料館蔵)の駒、三書体の書体比較を通して天童将棋駒のルーツの解明に取り組み、天童藩や米沢藩が残した駒の手本が本駒の安清草書体であったであろうと推論し、本駒の草書書体を母として玉庭駒・天童駒は兄弟のような存在であると結んでいます。
また、書籍の中には板谷将棋記念室蔵の「安清銘花押草書体書駒」も紹介されており、本駒と同様の書体の駒である事が紹介され、また、板谷将棋記念室蔵の駒は徳川家の葵紋入りの駒箱に収まっており、徳川美術館の鑑定によれば、駒箱はおよそ1810年頃、駒は1860年頃の作品ではないかと紹介されており、本駒も板谷将棋記念室蔵の駒と同じ時代の同じ作者の作品です。
桜井氏が天童の駒師として天童書体のルーツを探求した調査報告書ですので是非一読する事を薦めます。
(「玉庭駒」調査報告書は、現在でも桜井和男(掬水)氏から送料込み500円で取り寄せる事が可能です。)

『将棋の駒の銘は水無瀬家の筆を以って宝とす。この筆の駒、免許なきもの弄すべからず』
この様な草書体が江戸後期に発生した原因には、豊臣政権時からの掟として、江戸幕府においても寺社奉行が管理監督していたようです。
江戸期には多いに駒の生産販売に寺社奉行所が関与し、大きな利権組織となっていたと思われます。
江戸末期に将棋は多くの庶民にも普及し、将棋駒の需要も増大しますが、その需要を満たすには水無瀬書体の駒は咎められる事となります。
需要と供給を満たすには、明らかに水無瀬書体とは異なり魅力的な書体であれば、自由に生産販売する事が可能です。
その様な時代に庶民が駒を用いるには、水無瀬書体以外の書体が必要であり、書体のデザイン化が進み創意工夫されたのです。
当時、安清一派が水無瀬書体の免許を有していましたが、この様な駒を生産したのも、書き駒を担当していた下級武士達の売上増進が目的ではなかったのではないでしょうか。
やがて、安清一派は庶民向けの駒を作る中で、彫駒一派と書き駒一派とに分裂していったかも知れません。


松皮菱家紋入り藤模様蒔絵将棋盤・駒箱  安清・花押

武田信玄配下末裔である坂西氏の丸に松皮菱の家紋を用い、幕末にある程度の地位にあった人物とすれば軍艦奉行、勘定奉行など幕府の要職を歴任し咸臨丸の総督を務めた幕臣の木村芥舟がおります、しかし本作品の出所は不明ですので参考まで。
当時この様な豪華な将棋盤を持てる人物は限られており、有る程度の地位にあった者の持ち物であった事には違いありません。
出何所はともかくとして、本作品は上記安清花押と同じ書体の作品で、板谷将棋記念室蔵の徳川家の葵紋入りの駒箱の駒と同じ花押の作者です。
この書体当時の安清は高貴な者の駒を製作しており、一般庶民用の駒作者ではなかったようです。


さて、1860年頃は江戸幕府が大政奉還へと向かう激動の時代です、長年続いた鎖国の時代から開国へ方向転換し近代国家へと向かう時代で、13代、14代、15代徳川将軍の時代で、幕末の頃の将棋駒の駒師として金龍や真龍が知られ、二人共に当時の下級武士の副業として駒作りをしております。
一般庶民にも広がった将棋ですが、当時の一般庶民は木片に自分で文字を書いた簡単な駒や、財に余裕のある者は少し高級な駒として駒師と呼ばれる職人や、書を能する下級武士などにより生産された駒を使用していたと思われます。
また、既に東北地方では特産品として将棋の駒が多数生産されており、将棋棋具の流通としての流通網が整っていたのではないかと思われます。
例えば、二代目金龍は師匠である初代金龍の町井利左衛門(遠江掛川藩士)ではなく斎田小源多(遠江掛川藩士)に金龍銘を礼金三分で譲り受けたと記録されており、おそらく斎田小源多に支払ったお金は駒流通網への入会の礼金ではないかと思われ、1863年には棋具流通網が既に成立していたと思われます。
そんな幕末の頃の駒として「安清」銘の駒が最も多く残され、中でも中将棋の駒などや少将棋の駒などが大名家の盤と共に多数残されております、しかし庶民用に流通していた安清駒とは少々駒形や花押の形などが異なります。
また、特徴の異なる安清銘の駒も数多く存在し、同じ安清銘であっても作者は異なり、書体も異なり、安清の銘は駒作者銘ではなくブランド名ではないかと思われます。

本駒書体は浮世絵師の一勇斎国芳(歌川国芳)によって創作された書体ではないかとも思われ、天保十四年(1843年)作品の大判錦絵三枚続の『駒くらべ盤上太平棊』があります。
『駒くらべ盤上太平棊』には初版と後版とありますが、初版は国立図書館が昭和63年に発行した「囲碁・将棋文化史展」の表紙に用いられ資料No79に紹介されています。
一勇斎国芳の『駒くらべ盤上太平棊』に描かれている将棋駒文字は本駒と同じ特徴の書体で、王将の王の字が三角頭となり、この様な特徴は他にはなく、さらに飛車、角行、金将、銀将、桂馬、香車、歩兵の表字及び裏字も同様の書体で描かれております。
特に裏字の略字は他には見られない独特な書体で特徴的で本駒書体と同様です。
「囲碁・将棋文化史展」には作者不詳の『手駒なし詰め将棊』も紹介されておりますが、『手駒なし詰め将棋』に描かれている書体とも異なり、芝居文字や寄席文字や相撲文字や提灯文字などの江戸文字とも異なります。
また、本駒書体は錦絵の書体に歌川国芳が得意とする武者絵の感性を追加発展された書体となっており、当時から存在した安清の書体を当時の歌川国芳が錦絵に写したと考えるよりも、歌川国芳の書体を、本駒花押を持つ駒師安清によって作たと考える方が自然かと思われます。
歌川国芳の作品の中に描かれた駒書体は後年になるほど本駒書体に近づき改良されている様に思われ、「駒くらべ将棋のたわむれ」の副題に用いられている文字は本駒とほぼ同じです。

歌川国芳の錦絵も合わせてご覧下さい。

歌川国芳   「駒くらべ盤上太平棊」初版の駒文字

  

歌川国芳   「駒くらべ盤上太平棊」次版の駒文字

  


下記の画像は「駒くらべ盤上太平棊」の後に製作されたと思われる、歌川国芳の「駒くらべ将棋のたわむれ」の副題「飛車とり王将」の画像です、本駒書体と同様の書体である事が判断できると思います。
歌川国芳   駒くらべ将棋のたわむれの副題文字
 
 


本駒の草書体は芸術的であり美術作品としても素晴らしく、一部の高貴な人達の嫁入り道具の駒として各地に伝わり、当時の駒産地であった米沢上杉藩や天童織田藩に安清一派の者が招聘又は召し抱えられ書き駒の技術を伝えたとされます。
天童に移住した安清の指導により駒を模倣して安価な駒を生産する多くの書き師達が育ち、明治大正時代には天童が書き駒の一大産地に発展した一つの要因となったのです。
現在天童に残る書き駒の名称が源兵駒と呼び残されているのも、源氏の兵であった清安の一派の者が安清となり天童に移住して駒製作の指導に当たったからではないかと思われます。
江戸時代末期に大名家など名家に残された高級な安清銘の駒の特徴は書き駒であり、駒の厚さが厚い事が挙げられます、駒が薄く彫駒などの多くの駒は象牙製を除き庶民向けに作られた駒だと思われます。
また、安清の銘と共に花押が用いられている作品も多く、安清銘はブランド名で花押が作者個人の銘と考えられ、花押の種類だけでも5種類以上は確認しております、また、金龍も真龍も安清書体銘の駒を作っており、幕末の頃はそれほど安清の駒はポピュラーだったのです。
また、水無瀬写しの安清書体は駒文字としても格調高く、そして見易く一般庶民に好まれ多くの需要があり、書を能せずとも作り易く、耐久性の高い彫駒が好まれ、やがて書体も簡略化された安清書体銘の駒です。
やがて、彫駒は明治期に、突然「芙蓉」の増田弥三郎が現れ、その職人であった国松権次郎や小林重次、などに引き継がれ、大阪彫駒として発展しました。
安清一派は清安が安清と改名した最初の人物であり、その子孫達が安清を引き継ぎ、大政奉還により失職し天童や大阪に移住して駒作りの技を下級武士達に伝え、明治期には将棋駒の一大産地となる要因となったのです。

本駒は、王将の高さ40.4×32.2mm厚さ15.7mmで歩兵は高さ27.9×19.4mm厚さ9.1mmとかなり厚く大型で、材質は黄楊の様な雰囲気の木地ですが、比重も軽く別の樹種により作成されており、モッコク又は日本ヒイラギではないかともいわれています。
また、細長い駒形で駒先端の角度も鋭角であり非常に特徴的な駒形です。
本駒の駒形の違いについては、金井静山による静山龍山の源兵衛清安の駒と並べてみましたので参考にして下さい。
本駒の大きさは碁盤や中将棋盤を小将棋盤に目盛り直しをした場合には調度良い大きさです、江戸期の駒には本駒と同じ大きさの王将駒が時々見られますので、武家や公家達が手持ちの高価な蒔絵碁盤などを流用する為の工夫として大きめの駒を注文で作らせたのではと思います。
小型の蒔絵駒の木地も上記の駒木地と同じ木地が用いられており王将の高さ32.0×25.7mm厚さ12.1mmで歩兵は高さ20.7×15.5mm厚さ7.5mmと下記に示す番太郎駒を少し小さくしたサイズで、番太郎駒は本駒安清の形式を模倣した事が確認できます。

又、囲碁は打つ、将棋は指すと言います、本来将棋の駒は指す(滑らせ移動)もので、特に、中将棋は取られた駒は再利用不可能であり盤上から落として消えるため、駒の移動は、駒を指で縦横に押し退けて陣地を移動させるものです、ですから将棋駒は指すと云われ、将棋の駒を一本の指で押して移動しやすい形の駒は、ある程度の厚みが必要で、当時の公家や大名家達は厚い駒を好んで用いたのではないでしょうか。
現在のように二本指で持ち、ピシッと打ち付ける指し方は、相手を威圧する専門棋士達により粋な指し方として流行り、現在の厚さになっていったと考えられます。
江戸期の駒は厚い駒に秀作が多く残されています。





  江戸・明治期の番太郎駒四組 スキャナー画像

上記四組の画像は実際に天童藩や織田藩で作られたであろうと思われる無名の駒で、木地は雑木で作られており、書き駒ですがいずれも大駒と小駒の大きさの差が大きい独特な駒形で駒の厚さも厚く江戸幕末期から明治期頃に量産された駒です。
例えば一番左の駒は、王将の高さ34.6×29.5mm厚さ12.7mmと厚く歩兵は高さ21.6×13.0mm厚さ5.9mmと普通(水無瀬形)の駒形とは異なり極端に駒種によって大きさが異なります、番屋に24時間詰める役人達が薄暗い番屋で将棋を指すのには駒の形で見分ける事が出来便利です、そんな事から俗に番太郎駒と呼ばれたのでしょう。
本駒安清書体と番太郎駒書体は一見良く似ております、しかし国芳の描いた本駒安清書体とは異なりますが、本駒安清書体を元にして作られた書体であったろう事は安易に想像されます。
流行の最先端である浮世絵や歌舞伎のセンスを取り入れ斬新なデザインの駒は一種の流行となり、下級武士の内職として米沢上杉藩や天童織田藩でも盛んに作られのだろうと思われます。


天童草書体

天童の書き駒伝統工芸師・伊藤太郎師(大正15年生)の昭和50年代の作品です。
天童草書体にも数種類があり工房によっては書体が異なります、伊藤太郎師は伝統の天童草書体に拘り守り続けた数少ない駒師で、伊藤太郎師の書体が伝統的な天童草書体とされております。
実際に、伊藤太郎師の駒は、駒形が水無瀬形の駒形ながら番太郎駒と同じ草書体であり、伊藤太郎師が用いる天童草書体は江戸期の番太郎駒書体を忠実に模倣した書体であるとご理解頂けると思います。