豊島龍山作・三邨書            

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豊島龍山作・三邨書

「豊島龍山作」の書体や駒形から昭和十年以前頃の作品と思われます。
豊島の三邨書の駒は現存する数が少ない書体の一つです。
本作品の三邨書体は豊島が残したとされる字母帳の三邨とは銀と成りの一部に異なる部分が見られます。
最後の画像を参照してください。
あるいは豊島字母帳通りの豊島作品も存在するのかも知れませんが。

三邨書の駒は静山以降に良く見られますが、静山や宮松などの三邨書は豊島字母帳を元に作られていても、実際には本作品と同様に修正しております。
本来、豊島字母帳の三邨書の「銀駒」はそもそも文字としては問題があります、本駒の三邨書の「銀駒」は文字として成立しており、それをわざわざ誤字に直して字母帳を作ったのは何故でしょうか。

おそらく、今日残されている豊島字母帳は豊島工房の見本帳であり実際に製作する字母紙とは異なる物だと予想されます。多くの人が見る機会の多い見本帳である豊島字母帳から勝手にコピーしたり駒文字を盗む偽作駒師に対する予防策であったろうと思われ、字母帳の三邨書は豊島が偽作駒作者へ残したメッセージではないかと思います。

三邨書のほかにも豊島字母帳と実際の豊島作品と違う字母が数種類あり、字母の管理を厳しくしていた太郎吉の策ではないかと思います。


熊谷三邨(天保13年-明治35年)直光は、羽後六郷の熊野神社の家に生まれ、大蔵大丞、華族銀行支配人、四十四銀行頭取、仙台逓信管理局長、仙台一等郵便局長などを歴任し、詩歌、能書家でもあったが将棋棋士でもあり六段まで進み、伊藤宗印の「名手合い集」にも三邨との手合が残されている(角落-三邨の負け)

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