豊島作 無剣逸人           
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渡邊千冬自筆の駒 無剣

昭和4年2月発行の将棋月報の耕男生の記事「華族会館のエピソードと渡邊子爵自筆の駒」に*「龍山作 金龍書」コーナーに記事画像を掲載しています。
「麹町三年町華族會館では愈々お盛んに駒音を立てヽゐる、名人も怠ずお稽古に出張する、茲でも此頃駒の話が出て名人は錦旗の由来を一席辯じた、處が渡邊子爵は自ら筆を取て駒文字を書き、其駒を豊島太郎吉翁に製作させた、イヤ素晴しく立派なもの、豊島翁も一ト通りならぬ骨折りであつたそうだ、何と驚くでせう、華族御連中自筆の駒で将棋をさす人は子爵を於て他にあるまいと思ふ、名人は四五段頃まで美濃圍一點張りであつたといふが渡邊子爵も近來美濃圍ひ専門と聞く」と書かれております。
        注釈・名人とは関根名人の事

本作品がここで書かれている「渡邊子爵自筆の駒」で、後に王者の駒、無剣書として多くの駒師によって模倣される事になる本歌駒です。
「成辰秋無剣逸人」の成辰秋は昭和3年秋で、耕男生は上記記事を昭和3年12月13日に書いたと記事中に書いている。
無剣逸人とは渡辺千冬の号で無剣○○と揮毫する、逸人とは「世捨て人」みたいな意味でもあり、渡辺千冬が将棋を指す時は世相を忘れたい思いから逸人とし、逸侠とも号します。
大阪のコレクターが金井静山氏に会い、ある駒の鑑定を依頼された時に静山の証言によると師匠が「ある人(貴人)から依頼されて作った駒が生涯で唯一の会心作だった」と言っており、本作がその数次郎会心作と思われ、その漆の盛り上げや駒型は他の作品と明らかに異なり、単なるレタリングではなく貴族院の野武士と呼ばれた人物の書を駒字として見事に写しています。ただ単に美しいだけではなく将棋の駒に魂を写した素晴らしい芸術作品です。

駒台、駒箱は島桑で作られており、当時名の有る名工の作と思われる作りです、駒台は4寸から4.5寸の将棋盤用で、豊島の職人として駒箱や駒台を製作していた稲田勇師は普及品の作者で、本駒箱の作は高級品ですので豊島の外職の作品と思われます。
駒箱は角を丸めた隅丸形と呼ばれる駒箱で技術を要する独特な作りであり、当時の豊島では高級駒箱でした。

桧の収納箱の蓋裏に書かれている曽我・横山は私の憶測ではフランス留学仲間の曽我 祐邦と当時大物官僚の内務省警保局長(特高警察の上位長官) 横山 助成と思われ、渡邊に無剣駒製作を勧め豊島との仲を取り持ったのではないでしょうか。
まさに耕男生の記事と本作品と一致し当時の支配者階級の生活ぶりが偲ばれ、渡邊千冬は関根名人から直接指導を受けるなど、かなりな将棋好きだった事が分かり、本作品は渡辺千冬自身が豊島に注文した駒です。

豊島家に残された無剣駒

豊島が本作を作るに当たり、「成辰秋無剣逸人」駒を同時に二十数組程が作られたようで、渡邊千冬は立憲民政党結成に尽力し、昭和4年浜口雄幸民政党内閣が発足する原動力となりました。
この時の政治仲間に「成辰秋無剣逸人」駒を贈り、結束を固めました、作成された駒のほとんどの駒は、時の政治家仲間に贈られました。

本駒は、戦前に豊島親子が亡くなった後、ある棋士が直接豊島家から残された遺品として譲り受けた駒であるとの事です。
おそらく、当時、表に出せず影作となった作品で、豊島家に残された遺品で六個の判子と共に残され譲られました。、影作は、本作より高級な杢木地で作られており、多少小ぶりですが、本作同様に力の入った素晴らしい作品です。
豊島が「成辰秋無剣逸人」の為だけに、わざわざ字母用判子を作り、何度かの字母修正も行い、影作まで作って残っていた事は、如何に本作の為に力を入れたが分かり、耕男生が「豊島翁も一ト通りならぬ骨折りであつたそうだ」と太郎吉から聞いた通りです。
当時の日本の貴族にして政界の実力者、渡邊千冬の発注した駒を作る事は駒師としても大変に名誉な事だったと偲ばれ、後日のトミ未亡人の話では、駒の字母が出回らないように儀父太郎吉にきつく命じられたそうです。本駒の存在すら亡くなるまでの秘密だったのでしょう。

王者の駒
戦後多くの駒作者達が豊島の残された字母帳を基に無剣書を製作し、多くの駒愛好家によって「王者の駒」と賞賛され、数多く模倣生産されました。
中には無剣書だけを収集する者も現れた程で、駒作者の腕前を評価したり誇ったりもしてました。
しかし、平成年度になり本駒の存在が発表され、愛好家も駒作者も強烈な驚きに見舞われ、豊島数次郎の駒文字に対する姿勢と技量に、あまりにもの違いに驚き、無剣書の作成を、心ある多くの駒作者が中止した程です。
残された字母紙をレタリングするだけの駒製作であった事による作家としてのショックは大きかったのでしょう。
最近は本サイトから無断で画像コピーして無剣書を作成販売する者も現れておりますが。
今まで、本物の無剣書をじっくりと実見、観察して丁寧に作成した作者はたった1名だけです。
駒の命は書にあると多くの駒作者が語りますが、オリジナル作品を実見した事もなく、公開画像だけを見て模倣した作品に駒の命は宿っているのでしょうか?
駒の芸術性、独創性、そして感性とは何でしょうか?



    渡辺千冬の掛け軸   (クリックで拡大)

                               



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参考まで

渡邊千冬
長野県松本出身。父は宮内大臣を務めた伯爵の渡辺千秋、その三男として生まれる。
後に叔父で大蔵大臣を務めた子爵の渡邊国武(同墓)が生涯独身で跡取りがいなかったため、養子となり後を継いだ。
幼少の頃は実父の千秋の赴任先について行っていたため、父が鹿児島県令の時には鹿児島の幼稚園に通い過ごした。
その後、滋賀、北海道、東京と転々とする。高校時代は不勉強で成績が悪く、退学問題まで起こしたが、東京帝国大学に入るや、一転し一年で一番となり父親を驚かせたという。
大学卒業後、フランスへ留学し、帰国後、電報新聞社主筆、日本製鋼所、北海道炭鉱汽船、各取締役を務め、日仏銀行東京支店支配人となった。
1908(M41)衆議院議員選挙に出馬、四千三百七十三票で三位当選した。満30歳、日本一若い代議士となり。政友会に入党。
1919(T8)国武が没し、後を継いで子爵を襲爵。翌年、貴族院議員に選ばれ再び政界に乗り出し、会派の研究会では幹部に。
「貴族院の野武士」と評され、1927(S2)民政党結成への原動力となった。
1929(S4)浜口雄幸が首相となり民政党内閣が発足する際、首相直々に司法大臣として入閣。(小泉純一郎の祖父 小泉又次郎- 逓信大臣に就任)
1936(S11)現在の国会議事堂が完成したとき、千冬は貴族院の各会派を代表して新議事堂初の記念演説をした。
1939平沼騏一郎首相より、枢密顧問官に任ぜられた。同年.10.26勲一等瑞宝章授章。大阪毎日新聞社取締役、関東国粋会総裁を歴任。



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*西園寺公望の別荘「坐漁荘」の命名者でもある。大公望が渭江の岸に坐って釣をした故事にならっての命名という。


 曽我 祐邦
明治3(1870)年7月?昭和27(1952)年8月18日子爵
1892-94 、陸軍砲兵大尉。陸軍軍事研修のため留学先フランス「エコール・ポリテクニーク」
大正14年-昭和21年貴族院議員、陸軍中将 (子爵)
曽我祐邦子爵を会長に大日本アマチュア・フェンシング協会が設立された。現在の社団法人日本フェンシング協会の前身
妻は高円宮妃久子
渡邊とはフランス留学経験同士としてのフランス通。

横山 助成
1884年(明治17年)1月1日 - 1963年(昭和38年)3月27日
警視総監、貴族院議員。「献策居士」の異名をもち、趣味は将棋とゴルフ。
東北興業総裁も務めた。石田八弥の女婿。
岡山県知事、石川県知事、広島県知事、内務省警保局長、京都府知事、神奈川県知事、東京府知事、警視総監を務める。
1939年(昭和14年)12月19日 - 貴族院議員(勅撰議員)となる。翼賛政治会常任総務となり後に大政翼賛会事務総長を務めた。
内務省警保局長時代(昭和3年頃)に渡邊の将棋仲間