豊島龍山作・水無瀬中納言兼俊卿筆跡  

写真をクリックして下さい

    

水無瀬神宮は大阪府三島郡島本町広瀬に、古くからある大阪府内唯一の神宮です。
後鳥羽上皇を主神に第一皇子、代三皇子が祀られ、後鳥羽上皇の離宮として利用していたこの地、水無瀬殿(藤原信成)に御影堂を建て上皇を祀り、以来、御影堂に水無瀬家が奉仕して、明治6年に水無瀬宮となり、昭和14年に水無瀬神宮と改称されました。
水無瀬家は藤原氏の北家道隆の流れを汲む家柄で、後鳥羽上皇の生母七条院の里方にあたり、水無瀬親信を祖として、三代目信成が水無瀬殿に御影堂に奉仕して、以来現在の31代目忠成氏まで水無瀬家が水無瀬神宮宮司の職にあります。

水無瀬家十三代目兼成(1514〜1602)は文化人としての誉れが高く、兼成は三条西実隆家から水無瀬家に入り、父親は三条西公条、祖父は三条西実隆で、三条西実隆は将棋駒作者(三十数組)としては最も古い作者として記録に残ります。
水無瀬家の駒作りは、十三代目兼成以来、親具(養子、一斎、西雲)、兼俊(兼成の孫、父親は氏成)と三代に渡り駒作りされたとされます。
雍州府志には、水無瀬駒の始まりは、関白秀次(1591関白、1595切腹28歳)が当時能書家の誉れ高い水無瀬親具(1552−1632)に駒を作らせたのが始まりとされます。
親具は兼成の実子「氏成(1571-1644)」が生まれ事により、氏成の母親一派に毒殺を図られるなど命を狙われました。
命の危険を感じた親具は、兼成の実子・氏成に家督を譲り、徳川家康に庇護を求め、1585年に徳川家康より掘河の家号を与えられ新家創設し、(長男は掘河家、次男は樋口家)の祖となり、徳川家康の覚えも愛でたかったようです。明治維新の一人、岩倉具視も親具の末裔です。
親具は1595年に出家して一斎または西雲と号し、駒作りを続けたようですが、残されている関白秀次愛用駒には銘は残されていませんし、残されている駒箱には葵の紋と五七桐の紋が同時に描かれ、親具が水無瀬家から逃れ徳川家康の庇護を受けていた時期であった事に間違いないでしょう。
関白秀次も豊臣秀吉に実子が生まれた事により、秀吉から切腹を命じられ命を絶ちました。
親具が駒作りの始まりなら、後代に続く水無瀬型の駒作者は親具の関係者が代々継承して行ったのではないかと思われます。

残されている高齢な兼成の駒は、親具が水無瀬家を出て、掘河家を起こし別家となった後に残されている「将基馬日記」は(1590〜1602)もしかして、徳川家康が五十数組みもの注文をしている事からして、親具(一斎)が兼成の代理作者として作った駒を、一覧にして書き残した販売過去目録ではないでしょうか。
「将基馬日記」作成年代は兼俊は1歳〜9歳で、氏成は駒作りをした記録はありません。

現在、水無瀬神宮に残る三組の駒はいずれも兼成の駒とされており、昭和十二年二月の報知新聞の記事によれば、水無瀬神宮において兼成の駒三組、兼俊の駒二組が発見されていますが、兼成、兼俊の駒のそれぞれ一組は戦中戦後の混乱に乗じて市中に流してしまったようです。
他にも兼俊の駒は、三島郡高槻町の服部家などその存在は知られております。


高浜偵の「萬覚書帳」によれば、豊島龍山は大正八年に「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」の駒を製作しておりますが、現存する「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」の駒は非常に少なく、現在では前沢碁盤店(龍山作)と有吉九段蔵(豊島龍山作)の二組の駒が残され、雑誌等にも紹介されています。
しかし、本来、水無瀬大納言とは藤原経輔(1006〜1081)が正二位権大納言に進み水無瀬大納言と呼ばれた事や、幕末期の水無瀬家当主、水無瀬有成が大納言・正二位まで進みましたので、水無瀬家は大納言の家柄との勘違いから、「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」としてしまったものと思われますが、兼成、氏成(兼俊の父)は権中納言まで進みたが、大納言ではありません。
また、水無瀬兼俊(1593〜1656)も権中納言従二位まで進みましたので、「水無瀬中納言兼俊卿筆跡」が正しい駒銘で、古い豊島の水無瀬には、「大納言」とありますが、基本的には誤りです。
豊島龍山は誤りに気付き、結果として豊島の水無瀬書には「大納言」と「中納言」が存在しますが、書体そのものは同じです。
本駒は「水無瀬中納言兼俊卿筆跡」とあり、作品駒型や作風から昭和十二年頃に作られた作品と思われ、「豊嶋龍山」の銘と共に彫り名の非常に珍しい駒銘で、特別注文の駒です。
また、本駒の木地は古木の島黄楊虎斑の最高級の木地が用いられ、後年の数次郎の特徴が良く表れた作品で、数次郎前期の作品とは異なり、非常に洗練された印象に仕上がっています。

静山や影水や現代駒作者など多くの作者により、現在では本書体が「水無瀬書」とされておりますが、兼成や兼俊が残した水無瀬書体と豊島の水無瀬書体は随分印象が異なる書体で、既に「豊島水無瀬」と呼ぶべきな程の変化があり別物です。
安清や清安や後水尾天皇などの元書体も総て水無瀬駒を写した事により派生した書体で、本駒も水無瀬兼俊の駒を豊島の感性によりアレンジされた豊島水無瀬の書体です。
本駒は豊島作品の中でも逸品の作品で、洗練された水無瀬書体としても豊島数次郎後期を代表する作品です。



大阪の阪田三吉歴史資料館には数々の坂田三吉に所縁のある駒が展示されており、その中に、松本龍(元復興担当大臣・民主党)氏所蔵の盤駒が展示されております。
松本氏所蔵の盤駒は、龍氏の父親、松本治一郎(参議院議員・部落解放運動家)に坂田三吉が昭和十四年六月に贈られた作品で、「豊島龍山作・水無瀬中納言兼俊卿筆跡」の駒が収められています。
            松本龍氏所蔵の水無瀬中納言兼俊卿筆跡


   龍山作・水無瀬中納言兼俊筆跡 (昭和一桁後半頃の作)

    

かなり使い込まれた駒です。
一部の駒は堀埋め状態となっておりますが、書体そのものはほぼ残されております、普通ここまで使い込まれた駒は漆の欠損がみられるものですが、漆の欠損など見られません。
この駒は一般注文で作成された駒ですが、龍山の駒製作技術の高さが見て取れます。
ある特別な方法で製作されていますからこの様に使い込まれていても十分に使用に耐えるのです。
その特別な方法は、現代作者が用いる技法ではありませんから、本物の豊島龍山作品を見分ける重要なポイントになります。
さて、本駒は、堀銘の前駒と同じ字母氏から作成されておりますが、少々違った印象を受けられるでしょう。
それは、作成年代が違うからで、本駒は彫銘の水無瀬よりも5〜10年程前に作成された作品だからです。
しかし、どちらの作品も、数次郎の特徴が良く表れている作品です、何よりも、本作品は私に多くの情報を届けてくれます。
使い込まれた駒といえども、この数次郎の本駒は極めて貴重な駒で決して譲れない駒です。




下記画像は水無瀬家が市中に出した、二組の駒と駒作りに使用したハンコと思われる作品の画像で、現在某K氏が所有しています。

     水無瀬・兼成・兼俊の駒

兼成の中将棋一組
兼俊の中将棋と小将棋
(画像をクリックで拡大)
     兼俊の駒のハンコ

(画像をクリックで拡大)