豊島作・清安・花押 (源兵衛清安)       

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龍山作・清安花押  (源兵衛清安)
本駒の製作時期は、駒木地成型から大正末期から昭和初期の作品で彫銘の清安です
銘に堀銘を用いる時は、記念か何か特別な時にのみ用い、作品も出来の良い駒が多い様です。
豊島の清安書はおよそ五種類程存在しますが、この書体は豊島字母帳にある細字の清安ですが、本作以外では数次郎はこの書体で駒を作っていません。
良く似ている字母書体では数組程は見ていますが、少なくとも本駒以外では数次郎の本書体字母作品を私は見た事がありません。
この駒は木地杢の模様からして、中部地方の駒蒐集家が所有し公開していた駒で、縁あって私の蒐集駒に加える事ができました。
書体銘が「清安花押」の彫銘で豊島の細字の清安の名作品です、ご存知の方も多いでしょう、この駒が源兵衛清安の本歌駒です。
数次郎と信華が結婚していた当時の本駒は、どの様な特別な意味が込められ隠れている駒なのでしょうか、解き明かしたいと思います。
本作品の駒の木地成型は、大正末期から昭和初期の作品に用いられた駒木地成型である事を確認しました、また杢の良く表れた木地で作成されており特別な人に贈られた駒であると推測致します。

大正末期の大正14年に、数次郎は大阪の増田弥三郎(大阪芙蓉駒の総帥)の娘信華と結婚しました、この時の結婚記念に「清定」が作成された事は有名な話です。
しかし「清定」とは由来不明ですが、一体誰の作品だったのでしょう。
一般的には、平安末期から鎌倉初期(1161〜1241)の藤原定家(歌人写書、京極中納言)の書体であろうと言われておりますが、増田家と豊島家の婚姻の引き出物に、「藤原定家」の書体を婚姻の祝いに選んだ理由としては意味がありません。
また、定家書体の駒は江戸期から現代まで、その存在は確認されていませんし、定家が清定と変化する意味も理解不能です。

私の憶測では、おそらく戸川安清が14代将軍徳川家茂の和宮降嫁の際に作成した駒の銘が「清定」ではなかったかと推測してます。
戸川安清が将軍家の婚姻の際に先代の将軍・家定の一文字を用いて「清定」とし、婚姻時の輿入れ道具の駒を戸川安清本人が書いて、銘を「清定」とする事で、先代将軍家定からの祝いの意味を込めた駒として「清定」銘を用いたであろうと私は推測しています。
戸川安清は当時高名な書家であり、13代将軍「家定」、14代将軍「家茂」の書道指南役でもあり、「じい」として親しまれ、、徳川家茂のもとへ降嫁する和宮(篤姫)の警護役を任じられ、代々寺社奉行を務めた、幕府旗本の戸川一族総帥だからこそ、「清安」「清定」「安清」の駒銘を残す事を許され、江戸期の駒師安清一派を束ねた者であろうと推測するからです。
この様な事から、数次郎と信華の婚姻に際して「清定」銘の駒が婚姻の祝いとして選ばれた、本当の理由ではないかと思われます。

数次郎と信華の結婚に際して大阪の増田家から嫁入り道具の一つとして、信華に数種類の駒を持たせたと言われています。
信華の嫁入りの際に持たせた駒の中に、本作の元駒となった江戸期の清安や清定や安清の駒、或いは字母が増田家には存在したのでしょう。
では何故に、いち大坂の駒師の家に密かに伝わっていたのでしょうか?
決して一般庶民の民家には知られる事のない、将軍家でしか知り得ない将軍の秘密を大坂の増田家に何故に伝わっていたのでしょう?
この謎解きは別のコーナーで明かします。

さて、本駒は信華が豊島家の一員となった証しとして、作られたのではないかと推測できます。
銘に花押があり、清安家と豊島家の合作の駒とも読み取れますが、清安の末裔である増田家が豊島家の一員として迎え入れられ清安の末裔を引き継いだ証しの駒とも読み取れます。
それが本駒が特別の駒であり堀銘にした理由ではないかと私は思います。
この駒は、大阪芙蓉が再び関東復帰を果たし、両家にとっても大変に名誉な事であり、何よりも数次郎が幸せの絶頂期にあった時に作られた駒なのです。

しかし信華の幸せは長く続かず、結婚数年後に数次郎と信華は別れる事になってしまいます。
信華はこの書体の清安と共に豊島家から去り、信華だけがこの書体を作り続けました、数次郎が再婚した後に信華は増田信華銘に戻り、信華と数次郎は同時期に「源兵衛清安」と命名し、同じ書体で、同じ花押の特別な駒を、同時期に示し合わせたかの様に製作したのです。
そして、数次郎が亡くなりその数年後に信華も人知れず静かに駒業界から去って行ったようです。

戦後、静山はこの豊島の細字の清安を「源兵衛清安」として作り、書体の美しさから評判となり人気の書体になりました。
豊島龍山親子が亡くなった数年後の戦前から戦中戦後は木村は駒作りを止めており、信華の駒が最高級の駒として認識され、静山や宮松は足元にも及ばない程でしたので、静山は信華人気にあやかって「源兵衛清安」と付けたのでしょう。

では何故に信華や数次郎は「源兵衛清安」としたのでしょう?
そこで、私はこの書体は、「源氏の兵の子孫の清安」という意味ではないかと推測して研究していました。
本蒐集の江戸期の清安・花押と比べて下さい。ほぼ同じ花押の形をしています。
本コーナーの龍山作の源兵衛清安・花押も併せてご覧下さい。
信華のコーナーの源兵衛清安花押・増田信華作もご覧下さい。

本コーナーの龍山作の清安(坂田好・三代目安清)も併せてご覧下さい。
増田芙蓉も参考にご覧下さい、何かを気付かれ、感じると思います、疑惑の点と点を繋ぎ合わせると一本の線が見えます・・・・・・・・・。
「源氏の兵の清安」とは戸川安清の事であり、大阪の増田芙蓉や増田信華はその末裔である・・・・・・・・とね。


本作は特別な意味が在る駒だとしても、いかに数次郎の感性と技量が優れていたかが良く判る作品で、数次郎を代表するすばらしい名作品です。
駒史にその名を轟かせ現代駒の祖とも巨匠とも呼ばれる豊島龍山の作品は、先人の駒を単にトレースしたり模倣したりせず、先人の書を豊島の感性で新な駒文字へと昇華させ将棋駒の芸術性に挑戦したのです、駒製作は模倣の世界ではなく立派な感性表現のキャンバスである事を、豊島親子が具現化したのです。
このような豊島作品は現代において数少ない美術駒作品として数百万円の価値で取引されており、将棋駒が単なる将棋の道具としてではなく、美術品として取引される要因なのです。
日用品や道具としての駒と芸術作品駒の違いはオリジナルであるかレプリカであるかの違いであり、どんなに綺麗に作ったとしても、レプリカはレプリカであり日用品や道具としてのみの価値しか評価できないのです。
逆にレプリカ作品が蔓延すればするほど、オリジナル作品への評価は高まり、オリジナル作品の価値は高まるのです。
さらに、豊島作品はおよそ百年の月日に耐え、製作当時の姿を今に伝えている立派な美術遺産であり古美術品でもあります。

信華の清安作品と本作品は全く同じ字母紙で作られていますので見比べて見て下さい。