俊光・花押  中将棋彫駒          
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本駒作者俊光について史誌及び書籍など何も無く詳細は不明で、現在に残された数組の俊光の駒や研究者の意見から推測する他ありません。
将棋駒作りの始めとして記録に残るのは、三条西実隆が数十組の将棋の駒を作ったと史書に残ります。
三条西実隆の息子は三条西公条で、公条の長男(兼成)は水無瀬家に養子に入り、水無瀬兼成が駒作りの始祖とされます。
水無瀬家は、兼成、親具(養子、一斎)、兼俊(兼成の孫、父親は氏成)と三代に渡り駒作りされたとされます。
雍州府志には、水無瀬駒の始まりは、関白秀次が当時能書家の誉れ高い水無瀬親具(1552−1632)に駒を作らせたのが始まりとされ、親具は兼成の実子「氏成」に家督を譲り、出家(1595)して一斎と号します。また関白秀次は(1595/7)に切腹自害しています。
また、名駒大艦には昭和42年7月に東京日本橋の白木屋で「将棋4百年展」が開催され、関白秀次愛用の駒として俊光書の駒が展示されたとの記録が残されています。

以上の事から俊光は水無瀬駒と同時代に駒作りをしていた作者と思われ、、三条西実隆の流れをくむ将棋駒作りの一派で、当時、水無瀬家と駒作りにおいて覇を争った、京都の公家か僧侶でなかろうかと思われます。
あるいは、水無瀬親具は兼成の実子「氏成」に家督を譲り、出家して一斎と号し駒を作ったとされ、水無瀬駒は氏成の子(兼俊)に引き継がれる事から、俊光とは水無瀬家を離れ出家した親具(一斎)と何か関係があるのかも知れません。

俊光の作品は徳川家や豊臣家の家紋入り駒箱に納められている作品も多くあり、又、単なる桐箱に収められた駒もあります。
俊光の他に、江戸後期には俊則の銘の駒も残されていますが、大分時代が異なり別の作者です。

俊光の駒は中将棋よりも小将棋駒が多く残されており中将棋は割合に珍しい作品です、また俊光駒の最大の特徴は玉将の駒のサイズが異っており、異なった物を対にしております、画像からもサイズの違いが判断できると思いますが、この玉将の駒サイズの違いは俊光の作品である特徴です。俊光は双玉、片玉の駒も確認されており片玉の駒については同じサイズの王将と玉将としています。
また、本駒の最大の特徴は彫駒であり当時は書き駒が主流で彫駒は非常に珍しく、水無瀬駒も沈の駒(彫駒と思われる)を一作のみ作られたと記録されており、現存が確認されている駒としては本駒が最も古い彫駒かも知れません。
本駒は玉将の他に十数組の駒尻に何か意図的に書かれている様子が確認できます、歩兵の裏字も二種類の書体が用いられており、この事に関しては上手と下手専用に駒を分ける為のものではないかと想像しています。
意図的に書かれた文字は数種類の和歌か詩の一片が駒尻に書いてあり、駒を並べる時に下手に駒を選別させ和歌を完成させるなど、公家衆がその教養の高さを誇る為ではなかろうかと推測します。

駒の木地は黄楊で玉将32.3x29.5厚さ12.4mm、小玉将30.6x28厚さ11.8mm、歩兵25.2x19.2厚さ7.8mmと厚手の普通サイズの駒となっています。
現代の彫駒の製作方法とは異なり、駒に直接文字を書き一旦墨書き駒にした上でその文字を彫ったと思われ、彫駒ながら見事に書き駒の雰囲気を保ち、その彫もかなりの腕を持つ職人による彫であり個性的で後年の彫駒には見られない大変に魅力的な彫駒で、これこそ印刷彫では決して表現できない駒文字の味わいであり見事です。

本駒の詳細は未だ解明されていませんが、この一見非常識な駒は将棋駒史の上からも貴重な資料でもあります。