大橋宗桂作・後水尾天皇御筆跡乃写    
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本駒は質素な古駒箱に収められておりました。駒箱の蓋裏には「将棋家元 大橋宗佳作」と記されております。
大橋宗佳と言えば当蒐集の宗桂造の駒があります、どちらも同じ宗佳の銘ですが作者銘が造と作で異なります。
当時の駒作者の多くは○○造の文字を宛てますが○○作の字を用いる事もあり即時代が違うとの結論を出す事は早計で○○作もあります。
作品に注目してみます、先ずは駒作成方法は字母紙を用いて、線彫りと薄肉彫によって浅く彫られ、一旦堀埋めとし、その上で盛り上げられています、この様な技法は幕末期から明治期の高級駒に良く見られ、駒型や大きさも幕末から明治期の作品で間違いありません。
「御水尾天皇御筆跡の写」と「宗佳作」の銘があり、本駒の書体は今日に残る他の宗佳作品や宗金作品や木村名人家所蔵の資料と見比べても、御水尾天皇御筆跡を写した書体の駒である事は間違いありません。
御水尾天皇御筆跡の写しは、どちらも水無瀬駒書体の流れである事は明白ですが、実は少し違いがあります、龍馬の龍、龍王の龍、王将の将、金将の将、銀将の将などに違いが見られます。
この違いは豊島の水無瀬兼俊写しと「錦旗」にも表現されておりますが、本駒書体と豊島の「錦旗」は他にも数点書体としてして異なる点が認められます、豊島の「錦旗」は大橋家の御水尾天皇御筆跡の写しですが、本駒の書体は小林重次が写した「御水尾天皇御筆跡の写」の書体と同じ書体となっております。

近年、「宸筆錦旗」と称し、新な「錦旗」とする書体の駒が出回っておりますが、豊島は昭和6年に「御水尾天皇御真筆僅写」を製作していますので、その書体は豊島が後年「錦旗」とした書体と同じ書体であります。
豊島の「錦旗」書体は、本駒宗金の書体と真龍が製作した駒の両方の特徴を持った書体です。

さて、幕末から明治期にこの駒を作れる人物は、宗佳、宗金、真龍、金龍くらいです。
この三人の誰が作ったかは、十二代大橋宗金は宗佳作と銘を刻む作者でもあり、作品の漆の質も悪く、漆乾燥の室環境も粗末であった事から、十二代宗金の後期の作品ではないかと思います。
大橋本家は代々宗佳を継承しています、十世名人十一代宗佳も幼名は宗金でした、十二代宗金が家督を継ぎ宗佳を名乗っても問題ありませんので、大橋本家十二代宗金の作品であると評価しました。

大橋本家は、十世名人十一代宗佳が明治7年(1874)に亡くなり、十二代宗金が跡目を継ぎ、明治43年(1910)11月17日、奇しくも御城将棋の日に亡くなって事実上大橋本家は絶えてしまいました。

大橋分家の九代宗与(養子・勝田仙吉)は自身の不始末を責められ明治14年(1881)11月死亡(年齢不詳)し後継者もなく絶えました。

伊藤家は八代宗印が十一世名人に就任し棋界再建に尽力したが明治26年(1893)1月6日死亡し、嗣子印嘉初段は先立ってすでに亡く、後継者もなく絶えました。

江戸期から大橋家の当主らによって記された文書類など約500点は、「大橋家文書」と総称され、いまも残っている。一時は日本将棋連盟が保管していたが、現在は九代宗佳の曾孫の曾孫である静岡県在住の井岡さんの手元にあります。

大橋本家(宗佳)は、江戸末期には駒師真龍の家に間借りして住まい、段位認定の礼金や駒作りを行い生活の糧としました。
しかし、明治維新により、生活ぶりは困窮し明治7年に亡くなり、十二代宗金の代になると、宗金は更にいばら屋敷に住むまで凋落し、生活の為に将棋作りは続けられたようです。
十一代宗佳は名人位ですので、段位発行権を持ち免状を与える時に礼金の他に駒や駒箱や盤も同時に売り付けましたので、ある程度の収入になったようですが、宗金は技量5段で、本来は段位発行権を持たず、素人衆相手に将棋を教えたり、駒を作って販売する事が主な収入源でしたが、実際には段位を乱発したようです。
大橋本家の駒は、当時の憧れの的であり、宗金にとって御水尾天皇御筆跡の駒を販売する事は少しでも高額で販売したいとの思いであったのでしょう。
御水尾天皇御筆跡写の駒は明治以降に市中に広まり、後の駒師達により模倣されていきますが、宗金は駒作りは専業ではなく「御水尾天皇御筆跡の写し」の駒書体は二種類が残されており。宸筆錦旗の書体も、本駒を写した重次の「御水尾天皇御筆跡の写し」の書体も、どちらの書体も十二代宗金が「御水尾天皇御筆跡の写し」として作成しています。
豊島の「錦旗」書体は丁度、二種類の書体の特徴を合わせ持った書体なのです。
「御水尾天皇御筆跡の写」は大橋家で代々写し伝えた書体であり しかも、少しずつ変化しており本駒書体は最も後期の書体ではないかと思います。

蛇足ですが、明治維新で官軍の大将旗として用いられた「錦旗」は、島津藩が新に製作した「御旗」を「錦の御旗」として、時の今上天皇が追認する事で初めて「錦旗」となった物です。
現世に「錦旗」が2組種類存在する事は今上天皇にとっては戦の種となり困った事ですが、将棋の駒には数種類の錦旗が存在するのも困りものですね。

本駒は作成年代からおよそ150年以上経ているにも拘わらず、割合にしっかり書も残り、また御水尾天皇御筆跡の文字も確認でき、およそ150年経てのタイムマシンで贈られた駒のようです。