初代 奥野一香作   (董斎書写?)       
                    戦前の天童楷書体 仮称 奥野書

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本作は初代奥野藤五郎による大正四年頃の作と思われ、本駒書体は幕末期の真龍と思われる董斎書の駒を奥野が模倣した書体ではないかと思われます、書体名についても現在記載された駒が見当たりませんので、私は勝手に奥野書と命名します。

本駒は明治期に作られた勝浦六段に贈った作品の掘りの刃の入れ方や漆の入れ方など同一の特徴が見られます。
用いられている銘も奥野の特徴であるハンコが用いられており、専門棋士から駒師として駒製作をしていた時期だと思われ、駒尻の銘は長年の使用から彫り埋め状態となっていますが彫っている様には見えません、駒尻を荒らす事で漆が残るよう工夫していたと思われます。
この頃には藤五郎は、駒作りを始めて15年程度は経ています、本作品では、相当に手馴れて自信に溢れた作風で、スパスパと迷いなく、丁寧な仕事というよりも「これでいいのだ」とばかりに刃が滑っているような仕事ぶりです、彫駒の奥野藤五郎として一徹な自信を主張していると思います。これが、天童でもなく、大阪でもない、東京彫なのでしょう。
藤五郎は大正10年に亡くなりましたが、注目すべきは奥野作品としては珍しい片玉である事です、奥野は双玉を定めとしていた作者であると思われていますが片玉も製作していた事が分ります。
専門棋士だった奥野にとっての片玉は、素人衆の駒、即ち大衆用の駒だったのではないでしょうか。
明治の頃、天童では書き駒を大量に生産しておりましたが、天童の資料によると武内七三郎が大正四年に 奥野一香 のもとで東京彫りを習い、その技術を天童に導え天童が掘り駒の一大産地に発展したと記述されています。
本駒の書体が天童の彫駒書体として導えられ、大正から昭和初期には天童で盛んに用いられる書体となります。

大正から昭和初期の天童の彫駒

上記の駒は天童の上彫です、木地は黄楊が用いられ銘は無名です、駒箱には「別上 天童特産 将棋駒 大山製」と漆で書かれており、箱の裏には所有者の揮毫があり「昭和2年10月16日山形市ニテ求ム」、とあり、用いられている書体は本駒奥野の書体と同じです。大山製とは昭和7年「手押し式仕上げ機」(駒向き用)を考案した大山広吉が職人頭として兄大山吉冶(天童将棋駒製造信用購買販売組合)の駒工房です。
武内七三郎が奥野一香から彫を学び、同時に本駒書体が天童の職人に導えられた事実として確認できる証拠です、天童彫駒の産みの親は奥野藤五郎であったのです。
この書体では奥野の駒が現存する一番古い駒であり、奥野のオリジナル書体だと思われますので、奥野書と勝手に命名しました。
この書体は天童市将棋資料館の天童将棋駒の書体・森恵治(天恵)氏の天童楷書体とは異なりますが、実際に天童では多くの職人が大正から昭和初期に用いた書体です。

奥野藤五郎の本駒は天童彫駒の歴史的価値だけでなく、奥野藤五郎の東京彫の駒として納得するだけの味があり、オリジナリティー溢れる彫りには見るべきものがあり藤五郎の芸術性を感じ、松尾昇龍の彫とはまったく異なった独自の作風である事が理解できます。
もし、藤五郎が豊島太郎吉と同じ年代まで生きていたら東京掘り駒として一つのジャンルを確立していただろうと思いますが、残念ながら大正十年に豊島藤五郎は亡くなり、同年、長男の徳太郎により「奥野一香商店」が創業されましたが、このような掘りの東京駒は途絶えてしまいます。