初代奥野一香・(錦龍)贈六段勝浦       
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 初代奥野一香の藤五郎は、慶応二年に生まれ、大正十年に五十四歳で亡くなりました、藤五郎は将棋指しで土居市太郎率いる将棋同盟社(関根派)の設立に二段として参加し、会長である土居市太郎には藤五郎の長女を嫁がせています。
明治43年頃には三段となり東京朝日新聞将棋新手合での関根金次郎との対戦棋譜も残され飛車落ちで五分の戦いをしており、同時期には4歳年上の豊島龍山こと太郎吉は四段で共に駒作りだけではなく将棋棋士として競い合っていました。
まだ奥野も豊島も本業として駒を作っていたのではなく内職または趣味程度に製作していた時期です。
奥野は当時専門棋士にして駒作者でもあった名古屋駒の川井房次郎六段(号・房郷)から駒作りの手ほどきを受け自分で駒を作る事になったといわれております。(豊島太郎吉は牛谷露滴六段から駒作りを受けた)

本駒は勝浦松之助が六段の昇段のお祝いに奥野藤五郎が作った駒で、勝浦松之助(七段)が所有し、勝浦松之助の実家(広島)に蒔絵将棋盤と駒の一式で残されていた物です。
駒箱は既に壊れており、添書きのあった駒箱の蓋だけが残されていました。
勝浦松之助は明治三十五年四段、明治三十八年に関根金次郎より五段を受け、明治四十二年に上京した際に関根名人が牛耳る同好会に入会し六段を名乗りましたので、本作は明治42年頃の作品と推定します。
勝浦松之助六段は小林東泊門下で明治42年に、国民新聞、名家負退将棋の第1回、井上義雄八段と勝浦松之助六段の香落ち戦に、444手の戦前の最長手数戦として今も語り草となっております。

私のコレクションの中に同時期の豊島太郎吉の作品がありますが、豊島は盛上げ駒を、奥野は実戦向きの彫り駒を作っていたと思われますが、彫り駒とはいえ、彫や漆の用い方が幼稚で一部彫り埋めになるほど用いられており、奥野が趣味程度に駒作りを開始した初期の作品で、奥野独特の面取りや目止めに用いられたと思われる柿渋など、この頃から奥野流の駒作りの特徴が見られますが、現代駒の祖といわれる豊島太郎吉と技を競ったと言われる程の力量は無く、まだまだ駒作りの腕は誉められたものではありません。

鵜川氏は、書籍などで初代奥野は駒を作らず、奥野の錦龍は豊島の金龍に対抗して作られたと風潮しました、このような話は全くの作り話で、錦龍の書体は明治時代のアマチュア駒師であった奥野藤五郎が既に用いており、又、本書体は小菅剣之助名誉名人愛用の駒として将棋博物館に納められている駒と同じ書体であります。(銘は無名です)
奥野一香の駒作りの師匠である川井房次郎は中京出身であり小菅剣之助も中京出身で、小菅愛用の駒は川井房次郎の作品であったかも知れません。
従って本駒書体は川井房次郎の書体である可能性が高いのですが、幕末から明治頃に流行していた書体である可能性も否定できません。
高浜偵の「萬おぼえ帳」の駒目録に、大正6年に大阪の京町堀で、奥野の錦龍の駒を求めた、と記載されており、大正時代の初期には奥野の駒は全国的にも広く認知されていたと思われます。
このような作り話は、金龍書と記入された後に、斜線を入れ錦の字に替えて錦龍としてある事から、単純に考えついた想像と言わざるを得ません。
又、この様な事実を無視して、初代一香、奥野藤五郎は駒作りをしていないとの弁は全くの妄想としか言えません。
また、藤五郎は大正十年に五十四歳で亡くなり、五十代前半は高齢で駒作りが出来ない年齢である根拠にはなりません。

 


本作の書体は後年に奥野銘を入れずに販売した錦龍の書体に間違いありません、又、小菅剣之助名誉名人愛用の駒書体である事も間違いありませんが、元書体が何であるかは不明です。

豊島も錦龍書体名の駒を残しておりますが、奥野の外職であった清龍を名乗る者が豊島碁盤店経由で販売した駒名で、書体は奥野の清龍書です。奥野の清龍書のコーナーを参照して下さい。

 奥野系錦龍
豊島系錦龍 (外職作品です)