清安花押・水無瀬形         
                              瓜唐草蒔絵  将棋盤・駒箱
                   写真をクリックして下さい                           

徳川美術館の所蔵品で「初音の調度品」の中に将棋関係では唯一国宝に指定されている胡蝶蒔絵・将棋盤と駒箱と駒(源兵衛清安?と思われる?1639年)があります。
また、徳川美術館の所蔵品には国宝の初音の調度品の他に、「菊折枝蒔絵の将棋盤、駒箱」そして、駒の肩に葵紋らしき刻印が入った「清安花押」銘の駒が納められています。


本駒は「菊折枝蒔絵の将棋盤、駒箱、駒」と全く同じ書体で書かれた「清安花押」銘の駒で、書体も同様に水無瀬形の駒であり、同一作者の清安による作品です。
徳川美術館の菊折枝駒の肩には葵紋らしき模様が刻印されております、また本駒の駒尻には何か刻印されております、この様な特徴は他の古駒には見られません。
本作品の将棋盤、駒箱の「瓜唐草蒔絵」の中には家紋が入っておりませんので、婚礼調度品などではなく実際に使用する為の作品だったと思われます、婚礼調度品の様なギラギラした派手さはありませんが、作者の技量も素晴らしく、またデザインも大変に上品で、当時の大名クラス以上でなければ所有できない作品だと思われます。

徳川美術館の「菊折枝蒔絵の将棋盤、駒箱、駒」は、尾張藩11代藩主・徳川斎温 (1827年 - 1839年)に継室として近衛基前の養女(鷹司政煕の娘)・福君(j樹院・定子)が嫁ぐ際(1836年)の調度品の一部とされておりますが、実はもう一組の「菊折枝蒔絵の将棋盤、駒箱、駒」が存在し明治期に一組は損失してしまいました、記録によるともう一組は第九代尾張藩主・徳川宗睦(1733-1800)の正室として近衛家久の娘・好君(たかぎみ、転陵院)の調度品との事で、本当はどちらの調度品かは正確には確認されていないようです。

11代将軍・徳川家斎は、1789年に薩摩藩八代藩主・島津重豪の娘・広大院・近衛寔子と結婚(正室)し、将軍在任50年間と歴代将軍の中でも最長記録であり、16人の正室側室を持ち、男子26人、女子27人、の子を儲けた将軍で、後に大御所時代とよばれ、老中・水野忠成の賄賂政治により政治は腐敗し、江戸幕府衰退を招いた一方で、江戸を中心に文化が栄えた時代でもあり、浮世絵に代表される大衆文化や風俗や経済も開花した時代でありますが、江戸期におけるまさにバブル絶頂期がはじけ不況に突入する時代でした。

11代藩主・徳川斎温は11代将軍・徳川家斎の十九男で、幕府の命により10代尾張藩主・徳川 斉朝(一橋家)の養子となり、 斉朝は1827年に家督を斎温に譲らされ、34歳の若さで隠居させられてしまいます。
しかし、藩主・斎温は病弱との事で、尾張藩襲封後死去までの12年間、尾張藩領内に一度も入ったことがなく、趣味の鳩の飼育に没頭して、江戸で暮らした藩主でした。
藩主になって9年後(1836年)に後妻として福君が嫁ぐ際の調度品が「菊折枝蒔絵の将棋盤と駒箱」、そして「清安花押」銘の駒です。
藩主斎温にとって尾張藩は、いわゆる天下り先の独立行政法人みたいなもので、尾張藩の財政は貧窮する事となります。
さらに斎温が死亡後は、再び幕府の命により将軍・家斎の十一男・徳川斎荘が12代藩主となりますが、斎荘も斎温同様に放蕩領主だったようです。
この様な幕府からの押し付け藩主が横行し、後に幕末の尊王攘夷派と佐幕派の対立へと発展する事となります。

また、薩摩島津家は、5代将軍・徳川綱吉の養女・浄岸院・竹姫を島津継豊の後妻として嫁いで以降は、広大院・寔子(11代将軍・徳川家斉"の正室)また、1856年天璋院・敬子・篤姫(13代将軍・徳川家定の正室)を将軍家に嫁がせ、縁戚関係を深めており、特にこの時代の11代将軍・家斎の時代には島津家は外国との交易を通じ蘭癖ともよばれ、西洋文化を広めるなど江戸幕府においては、文化・経済面において非常に強い影響力を持っていたと思われ、特に大奥取り仕切りについては、島津家から嫁いだ正室・広大院からの後押しなどもあり薩摩島津家は、徳川家婚姻の際の調度品の調達などでも江戸島津屋敷の利権の一つとなっていたかも知れませんね。

当時の将棋界は庶民の娯楽として広まると共に、寺社奉行管轄の将棋所、囲碁所、碁盤所、細工所、など囲碁や将棋文化も花開く時代で、将棋所では大橋家を宗家とした将棋三家が将棋文化の中心にあり、九世名人大橋宗英や天野宗歩が活躍した時代でもあり、同時に碁盤所や細工所でも棋具や蒔絵の発展に多いに貢献した時代でもあったのでしょう。
また、将棋の普及と共に駒師や盤師や絵師などが技を競いあい、当時の商業組織は株仲間制度が普及し一種の組合を形成して高級将棋駒も同様に、駒職人と呼ばれる下級武士達もいたようです、しかし一般庶民や下級武士の職人に銘や花押を押させ大名家に納める事には少々無理に思いますので、大名家クラスの駒は将棋駒株仲間の長に駒を作らせ納めるなどや、駒木地だけ納めさせ高名な書家や文学者に駒文字を書いてもらったと考えるべきだと思います。
特に将軍家や大名家の持ち物で銘を作品に記する事が許された物は刀剣類の武具などに見られ、さらに花押は官位を持つ高名な者が自身を証するサインとして用いた物で、花押は特別に許された人だけが記する事の出来るサインでした。
将棋の駒も武士の武具同様に単なる道具としてではなく精神性や格式的な価値を求めたのかも知れませんね。
江戸期に花押を用いた駒師は「清安」「安清」「俊光」「俊則」「義勝」などの駒が残され、花押の入った作品はいずれも素晴らしい作品ばかりで、大名家の遺品として今日に残されています、また書体は基本的に水無瀬書体を基本として模倣しています。

さて、同時代に徳川将軍家と薩摩島津家の両家の将棋駒を作った清安とは一体何者でしょうか?
本作は水無瀬駒の写しである事、しかも本物の水無瀬駒を見て写している事や銘と花押を記した事から、お公家衆か武士あるいは高名な書家が製作した駒ではないかと思われます。
また、将軍家の寺社奉行管轄の将棋所や碁盤所または細工所に何らかの係わりがあり、作者銘と花押を記する事を許されている事などから、この時代の旗本武家集団による独占的株仲間組織、のかなり高名な武士あるいは書家であったろうと思われ、この様な組織が次の世代に金龍、真龍、安清などの駒師誕生の基礎になったでようです。
本駒の作者は後年「安清」と名を変えて本駒と同様の駒と花押を残しており、初代安清と断言して良いと思われ専門駒師集団「安清」の誕生に何らかの係わりがあったようです,、さらに、今日に伝わる源兵衛清安の謎にも関っていそうです。

後年の専門駒師集団「安清」の駒は同じ水無瀬写の安清や伝関白秀次(後水尾天皇・)とは少々異なり個性的に駒文字は変化していきます。
この時代当時、このような状況化でこの清安駒の作者として考え得る者には、この年代に長崎奉行(1836-?)であった戸川安清がいます。
戸川安清は初名を安恵、通称雄三郎、字は興、号は蓬庵・蓮仙と号し、長崎奉行当時から書家として高名であります。
戸川家は代々徳川幕府の要職に就いている家柄で、戸川安清は11代将軍徳川家斉の時に出仕、目付となり、大隅守・播磨守・長崎奉行を経て、勘定奉行・大坂留守居となり、幕府の要職を務める家柄です。
書は持明院基政に師事して。後には、家定・家茂にも「指南役のじいとして」仕え、小便お漏らし事件の逸話でも知られ、和宮降嫁の際、京都に赴き。慶応4年(1868)に歿した。往年82才

戸川安清について現在文献など調査中の状況で駒を作った、などの書籍などの決定的物証拠は発見されておりませんが、状況証拠としては数点がありますので今後も調査していきたいと思います。
戸川安清は、現状ではとりあえず、戸川安清あるいは親族が本駒の作者として最も有力ですが、確定された訳ではありません。
注 長崎奉行は単身赴任しますが、当時は2.3名の交代制で1/2〜2/3の期間は江戸務めで、蓄財や政務工作し易い憧れの職務であります。

さて、使用されている木地も目の良く詰まった木地で薩摩や島黄楊ではありません、駒材として芯に近い部分のみの柾目が使用されており、かなり小さな原木であったろうと思われ、京都以東・北の本土の黄楊ではないでしょうか。
当時は将棋駒に柾目木地を用いるよりも板目の無地の木地が好まれ、柾目木地だから最高級品という事ではありません。現在の木地嗜好とは真逆で駒の書そのものに価値があり、木目や斑などは書を汚すだけで好ましいものでは無かったようです。
徳川美術館の菊折枝の駒は板目であり、本作品は柾目である事から本作は菊折枝駒の影作だったかも知れませんね。


駒は玉将30.0×25.5で厚さ11.6mm、歩26.8×20.1厚さ9.8mmと現代の駒に比べれば小型ですがかなり厚く、香車が桂馬よりも1.5mm程高くなっております。
本作品の40枚の駒の内、歩兵3枚は欠品して後年に追加した物と思われ、平箱の画像の最下段右側3枚は、後年の安清の手による物2枚と、清安の手による駒1枚が含まれています。
本駒は書き駒の中でも素晴らしい出来で、歴史的価値を除いても将棋駒として傑作作品だと思いますし、古駒の中でも大変に貴重な作品です。

   足し駒の清安の手による歩兵の駒尻にも刻印が打たれております。
駒尻の刻印の大きさは直径1.5mmと非常に小さく、それぞれ何か意味のある刻印である事は確かなようです。


将棋盤は36.3×33.0cm高さ16.6cm厚さ7.0cmで、ヘソ8.3×7.3cmで深さ9.5mmとなっており、ほぼ(縦一尺二寸、横一尺一寸、厚さ二.三寸、足高三.一寸)の榧盤です。
天面の枡目は筆盛で線の太さはズ太いと言った感じさえします、もう筆盛の線を書ける職人はおりませんので滅多に目にする事は出来ませんので、ただただ関心するばかりです。
蒔絵の模様は「瓜唐草蒔絵」と専門家が言っておりましたので「瓜唐草蒔絵」とします。
絵模様としては沖縄雀瓜に良く似ており、古典的な蒔絵模様ではなく珍しい模様で、当時沖縄を支配下に置いた島津藩と関係するのかも知れません。葉や果実の色に変化を持たせる為に銀や錫を用いるなど技を駆使して表現しておりシンプルながら見事です。

駒箱は模様も将棋盤同様に「瓜唐草蒔絵」の模様で、外箱13.55×11.54×5.2cm、内箱12.79×10.74×5.6cmとなっており、内箱の紐金具は銀製で同様に「瓜唐草」模様の細工が施されておりやはり見事というしかありません。
また、外箱天面に描かれている動物は「馬」、将棋の駒箱ですから「駒=馬」ではないかと思われます。
二匹の馬のタテガミや尻尾も画像では見難いかも知れませんが一本一本非常に細い線で丁寧に表現されており、馬の筋肉なども高度な漆の技法で立体感が良く表現されています。
将棋盤や駒箱に施された蒔絵は並の作品とは思えず素晴らしい出来栄えです、漆も良い漆を厳選したらしくその艶は素晴らしく、一見近年の作品かと見紛う程です。
当時の蒔絵職人が最高の技と材料で作られた真の芸術作品でもあり、物作り日本の真髄を見せる作品です。


初代「安清」

本駒作者は後に安清と銘を変えます、初代安清と本駒作者の清安は同一人物であった事が推測できます。

清安から安清へと銘を変えても花押は変えていません、花押には官位、地域、出生などの個人情報が込められているそうで、清安と安清は同一人物である証拠となるものです。