金龍造・法眼董斎書             
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現代駒の元祖
、二代目金龍


江戸幕末における近代駒字母の祖であり、金龍とは書体名ではなく駒師(二見氏冶)の銘で江戸末期から明治初期に流行した駒師で、史料に裏付けされた駒師の中では一番古い駒師であり、豊島龍山が近代駒師の祖であるならば、金龍こそ近代駒師の元祖です。
二見氏冶(金龍)作品による駒は現存数が極めて少なく、幻の駒です。

回天丸艦長.甲賀源吾の実の兄である駒師金龍
二見氏冶の三男宣政の子大雄は「回天艦長甲賀源吾伝」の中に実祖父金龍の生涯を書き残しました。
以下「回天艦長甲賀源吾伝」よると。
金龍は、明治維新政府に反旗を翻して北海に走った榎本武揚傘下の勇将、甲賀源吾(箱館政権海軍の回天丸艦長として宮古湾海戦で戦死)の実の兄です。
昭和七年刊行の私家版「回天艦長甲賀源吾伝」甲賀大雄の伝書によると二代目金龍は、5万石掛川藩主大田資始(備後守)(太田家は摂津源氏の流れを汲む太田道灌資長の後裔)の掛川藩士である旗奉行甲賀孫太夫秀考の子(四男一女)の次男に生まれ名を五郎左衛門氏冶という。
四男の弟、源吾秀虎が明治二年三月、宮古湾海戦で壮絶な戦死を遂げた甲賀源吾である。

氏治は文政十年(1827年)六月五日に掛川城内(静岡県掛川)で生まれ、五歳にして能、囲碁を習い、六歳の時、父甲賀秀孝と共に江戸駒込の太田公下屋敷移る。七歳で学校に入り、十二歳にして馬術、剣法を習う。十四歳にて文選十八史記を素読し、十五際の時には父と共に掛川に戻り、掛川の学校の助講師を承る。
弘化三年、二十歳の時、二見家(二見氏英)の養子となり、江戸に出て駒込の太田公下屋敷に住まい、大田公の近衆を仰せられ、御刀番、御供頭と進み格式馬廻りとなる。
しかし、三十五俵三人扶持と薄禄だった為、嘉永五年(1852)、二十六歳の時に、金龍の銘で駒を作っている町井利左衛門(掛川誌稿の中に町井一族、江戸与力の記録が残る)のアルバイトとして駒作りの技法を学び生活の足しとした。
二見氏治は文久三年(1863)格式文談を仰せつかり、この頃、斎田小源多(掛川藩士で掛川誌稿を編纂した人物)より将棋の銘として金龍銘を譲り受け、登録費として三分を払ったとあります。


太田家が江戸幕府の要職となったのは、徳川家康側室の英勝院の兄太田重正の子資宗を養子とし、譜代格として徳川秀忠に出仕させ、資宗は順調に出世し、徳川家光からの覚えも良く、六人衆(のちの若年寄)となり、さらには下野国山川藩1万5千石の藩主となります、その直系子孫が5万石掛川藩主大田資始(備後守)であり、幕府の要職を歴任し老中を3度も務めますが、太田家は明治維新にはいち早く開城し維新後には子爵となり、その家来衆も官民となります。

掛川藩主大田家は太田道灌を祖とし、幕臣旗本となり、江戸幕府において奏者番、寺社奉行、老中、若年寄をも務める家格となり代々江戸幕府の要職を務める家です。
奏者番は将軍に報告や将軍が下賜した内容を伝達する役や、儀礼礼儀作法を教える役でもあり、将軍に謁見する為に待機する「芙蓉の間」の詰席を管理する、現代であれば内閣官房のような役目です、寺社奉行は奏者番の中から選ばれ、将棋所大橋家は寺社奉行支配下です。
次男坊の甲賀氏冶が二見家の養子となったのも、掛川藩士族よりも直参旗本の大田資始(備後守)の近習となる事が出世の早道であり、長子が家を継ぐ決まりの時代であり、次男である氏冶は、大田公近習の二見家の養子となり、駒込の大田候江戸屋敷長屋住となり二見家家督三十五俵三人扶持を授けられます。

代々奏者番を務め、寺社奉行や老中をも務める旗本太田藩の藩中の近習であれば、禄が低くても将棋所大橋家や将棋の製作者に対して大きな職権を有していました。
同じ掛川藩士の斎田小源多に金龍銘を譲り受けたというのも、当時には将棋駒流通株仲間組織が既にあり管轄役人の斎田小源多に将棋駒作りの株取得の為に三分を支払ったのでしょう。
初代金龍(町井利左衛門、掛川藩士)も同じく掛川藩士と掛川藩史に残されており、下級掛川藩士の内職として駒作りをしていたようです。
当時は直参旗本の掛川藩主大田資始が将棋駒流通組織を管理していたのでは、と推測されます。

江戸期において「将棋の駒は水無瀬の書を宝とす、免許なき者、写す事適わず」と将軍に命じられ、公式に(寺社奉行)認めた者しか水無瀬書体の駒を作成する事ができなかったようです。
諸国の大名などが将棋の盤や駒を求める際に幕府と問題を起こさぬ様に、必ず寺社奉行や奏者番や将棋所に相談や紹介を求めるでしょうから、その利権は絶大だったと思われます。

初代金龍(町井利左衛門、掛川藩士)は将棋駒に銘を残しませんが、二代目金龍は駒尻に銘を入れたと記されています。
町井利左衛門は下位な家格であった事から、銘を名乗れる程の家ではなく、安清一派の下職であり銘を残せなかったかも知れません、あるいは、大橋家で販売する駒や庶民用の駒を生業としていたのかも知れません。金龍(二見氏冶)も初期には下職として腕を磨いたのです。
また、甲賀家の長子、甲賀秀兼(二見氏冶の兄)は天龍と號しますが、駒の作成有無は不明です、維新後には松尾藩練兵教頭を勤めました。

この様な利権組織である駒流通組織で管理されていた安清一派などの駒は、明治維新を境にしてほとんど見られなくなり、変わって、金龍や真龍、大橋宗佳などの作や、明治期には大阪方面では芙蓉の駒が今日に残ります。

金龍(二見氏冶)は、大田候の近習から馬廻役に進み大政奉還(1867)後は松尾藩大目付に昇進し、明治六年四月六日に五反田村で四十七歳の生涯を閉じました。
金龍は立身出世の駒師として持て囃されますが、それまでは安清を含み水無瀬型駒一辺倒の駒文字を、当時評判の書家である法眼董斎や市川米庵の隷書・楷書などの駒書体を用るなど、新しい試みを行い、その人気は高く、大橋家でも真龍の駒は金二分、金龍の駒は金三分で販売していたと将棋漫話に記載され残ります。
金龍が大目付就任以降は製作数は極端に少ないと思われますから、金龍銘の残る駒の最盛期は僅か4年程の短い期間で製作駒数は少なく、現在に残る金龍の駒はほんの数組しか残されてはいないと思います。
幸田露伴は「将棋と碁の将棋雑話」の中で、「金龍は真龍よりも勝れ、真龍は安清より勝れたり、金龍、真龍などの造れるは玉将の後に銘あり。駒の文字もいと正しく読み易く、玉は二枚とも必ず玉と書しありて王とは書さず。」と記されており、本駒も双玉です。
幕末から明治初期の関東の職業駒師は真龍や金龍が特に有名で、当時両名駒師は将棋名人家の大橋家でも販売され真龍の駒は一組二分、真龍の董斎書駒は一組二分二朱、金龍の駒は一組三分で販売されていました。
もしかしたら、真龍とは二見氏治に金龍銘を譲った町井利左衛門の銘なのかも知れませんが、何ら根拠も証拠もありません。
金三分を現在の価値に試算する事は対象とする物により大きく異なりますが、当時の大工の手間賃が月に一両との事で現在の建築関係者の月間手間賃を月30万円とすると、一両は四分に換算されますので三分は23万円程の価値となり真龍の駒は15万円となります。
月一両の大工の生活費は長屋の家賃と食費と光熱費でほぼ消費してしまい可処分所得は残らないとの事で、現在の生活水準と比較する事は異論もあると思いますが当時の一般庶民にとってはとても高値の華で、一部の生活に余裕のある金持ちの趣向品であった事は明白です。
現在の有名現役駒師の盛り上げ駒の価格は定価50万円から100万円もしますから、むしろ江戸時代の方が安いかもです。



法眼董斎の駒
本駒は、桐の外箱の中に漆塗の駒箱に収められておりました、駒は多いに使用され彫埋め状態になっておりますが盛り上げ書き駒です。
但し、書き駒の滲みや漆の欠けを防止する為に柿渋で下書きをして輪郭内部を浅く荒らしてから再び渋柿を塗り、柿渋を目安に漆で盛り上げげたのではないかと思います。このように手間を加える事により、それまでの書き駒よりも漆の欠けや欠損を防止する事が出来たのではないでしょうか。書き駒から現在の盛り上げ駒への移行時期の駒だったようです。
江戸末期の駒に時々見られる特徴でもあります。

また、本駒書体は豊島太郎吉(豊島龍山)が明治末期に作成した「豊島龍山造・法眼董斎書」の駒と、まさに瓜二つであり、豊島の法眼董斎書は、本駒と同じ金龍の法眼董斎書の駒を模倣したもので、今日では豊島の残した書体が法眼董斎書と思われていますが、本当は金龍が残した駒の書体を写した書体だったのです。
また、豊島には金龍書の駒が残されていますが豊島の金龍書は竹内棋洲の駒(錦旗)を関根名人が写した書体の駒です。

さらに、本駒の木地を良く見て下さい。
経年変化により見難いかも知れませんが、本駒は最上級木地である虎斑の藤巻木地によって作成されております。(現代では数十万もする木地です)
製作当時には見事な藤巻模様であったろうと推測できる木地が用いられており、木地も厳選されており、江戸末期以前の駒の常識を破り、駒木地にもその貴重性を与えた、正に近代将棋駒の元祖と呼ぶに相応しい駒です。
何よりも、将棋の駒文字に水無瀬一辺倒であった駒文字を、時代に合わせ高名な書家の書体を用いるなど、斬新なアイデアがいたる所に見られ、近代将棋駒の礎を築いたと言っても過言ではないでしょう。
庶民豪商の道楽としての将棋駒として、金龍が人気を博したであろう事は想像に難しくありません。
金龍こと、二見氏冶こそが近代駒の始祖であり元祖であり、初代豊島龍山も残された金龍の駒などを手本として駒作りをし、腕を磨いたのです。

  左画像は、熊澤氏が豊島数次郎の妻トミさんから譲り受けた遺品の一部です。
豊島太郎吉が金龍の法眼董斎の駒から臨書して写した紙片が保存されています。

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実際の豊島の駒は太郎吉作品と数次郎作品がありますので、豊島のコーナーをご覧ください。
豊島龍山はこの書体の駒は皇室関係者のみに作成したといわれています。



松本董齋は1870年に没し、江戸時代後期の書家であり、名は正義で号を董齋と称し、大阪の中井董堂に師事した書家で、董其昌風の書を得意とし江戸に住み、江戸後期から幕末にかけて名を馳せている。
龜戸天神には董齋筆塚が遺されており、文政四年刊行の大田錦城著『仁説三書』や林国雄著『興哥考』などに序文も寄せている。
また川越の愛宕神社に有る安政四年に建てられた父塚芭蕉句碑の揮毫者であり、幕末維新の俳人小野素水の書の師でもある。
後に仏教の僧位である法眼を授かり法眼董斎と称される。
松本薫斎の長子董仙は天野宗歩門で五段、次男は松本竹郎七段、三男の桂月は尺八を職とし三段、と一家揃って将棋好きでしたので、薫斎は自筆の駒文字を数種類書き、金龍に渡し将棋駒を作らせたと思われます。
おそらく、董斎書や董仙書なども金龍によって駒となったと思われます。

江戸初期から江末期までほとんどの高級駒の将棋駒書体は水無瀬形駒の模写一辺倒でしたが、大政奉還と共に、江戸幕府の利権組織である駒流通組織が解体され、唯一細々と大橋家や民間に残りましたが、明治期には、その大橋家も衰退してしまいます。
その結果、明治期には、金龍や真龍など高級江戸駒職人も亡くなり、高級駒の入手は難しくなり、将棋棋士達は自分で駒を作り、使用する事になりますが、明治末期頃には駒作り専門の駒師も現れたのです。

幕末から明治期に金龍が残した功績は、新しい将棋駒書体の積極的な開発にあると思います。
また、駒木地にも斑や模様を積極的に用いて価値を高め、将棋駒の製作技法についても、彫ったり削ったりした痕を埋めてから漆を盛り上げる近代盛り上げ駒、の基礎を考案し駒の耐久性を高めたのも金龍のアイデイアではないでしょうか、まさに現代将棋駒の元祖と言えるでしょう。