金龍・花押 (市川米庵書)銀杏面取     
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金龍 二見氏治(二見五郎左衛門氏冶)

金龍 の二見氏冶は大変な知略者で商才に長けていたそうで、黒船の浦賀来航の年(嘉永6年(1853年)、武器弾薬の需要を予見して、鉄砲の口薬入り早合(はやごう)を作って、あちらこちらに売りさばいて大儲けしたそうで、お能は宝生流、俳句もひねり、多彩な才能を発揮したそうです。
金龍の駒作りは明治六年四月六日に四十七歳の生涯を閉じ終焉を迎えますが、彼の子孫も大変な知識人で活躍します。

弟の甲賀源吾が明治2年3月の宮古湾海戦で壮絶な戦死を遂げたので、明治4年甲賀家再興のため金龍の三男、貴知郎が甲賀源吾家を継いで甲賀宣政を名乗り、義理の父源吾が務めた時の幕府海軍総裁、矢田堀鴻の下に学問に励み帝大卒の工学博士となり、大蔵省造幣局での多大な功績が認められて正三位勲二等を授けられるまで栄達します。
さらに、甲賀宣政の子大雄は大正末期に帝大医学部卒の医学博士となり、数本の研究成果を残して『芸備医事』昭和6年12月号の記事に「サルバルサン注射と禿頭」という論文などを残します。
当時売春は許されており、梅毒の蔓延は深刻な問題でした、「サルバルサン」は当時の有力な梅毒治療薬で、その薬の副作用で頭髪が抜け禿げると警告し、その危険性を説いています。
当時の男性にとって梅毒で鼻がもげて死ぬか、禿げになるか深刻な選択をしたんですね。
貴兄諸君は安心してください、「サルバルサン」はヒ素化学物質薬であり現在では使用禁止で、現在ではより安全な抗生物質を使うそうです。

大雄は、中央区蛎殻町1丁目29で甲賀病院を設立し、私伝書「回天艦長甲賀源吾伝」を残し、彼の祖父である「金龍」を記録に残しました。
現在は当地は第二次大戦の空襲で焼かれ、今はアパートが建ち何も痕跡は残されておりませんが、駒込の光源寺には甲賀家墓所と二見家の墓所があり、現在も仲良く並んで墓碑が立っています。

全面銀杏面取りを施した駒と、大将の駒箱
さて、本駒は黒柿の駒箱に収められておりました、大橋家に伝わる駒箱のサイズよりは多少大きいのですが形は大橋家流で水無瀬駒の絵柄が描かれ結い紐金具も取り付けられ凝った駒箱で、奇妙な事に王将の駒が大将となっております。
幸田露伴の将棋と碁によれば、「文禄四年五月五日の折に、太閤より菊帝、勸修寺、中山御使にて、将棋の王将を改めて大将に直され候」と言われたそうです。(豊臣秀次はこの翌年の七月十五日に自害)
ですから、本駒箱の図案は豊臣秀次が水無瀬家に製作を命じた事実と、実際に製作され存在した、当時の水無瀬駒の図案に間違いないでしょう。
大将とした水無瀬駒が実際に存在していたと思われ、将来には発見されるかも知れません。


さらに、注目すべきは全駒に施された銀杏面取りです、私の知る限り銀杏面取りの駒は十三世名人・関根名人記念館が所蔵する牛谷露滴作成の駒ただ一組ですが、牛谷作りの駒は表裏の二面に銀杏面取りが施されております。
しかし、本駒は六面の全てに銀杏面取りを施した駒で牛谷作りとは全く異なり使用された面取りカンナも違います。

鹿島清左衛門(鹿島清吉)(鹿島清次郎)嘉永六年(1856)生れと記録に残りますが、おそらく牛谷露滴ではなく、次代を継いだ牛谷春甫の事だろうと思います。
牛谷家は、伊藤宗印や小野五平の贔屓筋で、東京の深川區島田町七に住み、明治期には没落してしまった人と伝えられており、豊島太郎吉(龍山)に材木商と駒作りを教えた人と伝えられ、天狗太郎『名棋士名勝負』によれは牛谷露滴は深川木場の人望家で、酒問屋を営む者と伝えていますが、国立国会図書館の「日本紳士録. 第1版」明治22年6月では鹿島清左衛門は材木問屋を営むと記録されており鹿島清吉は酒屋問屋を営むと記録され鹿島清次郎は質商(金貸)を営むと記されています。鹿島清左衛門や鹿島清吉や鹿島清次郎は明治末期から大正時代には急速に資産を減らし二百萬程度となりますが、それでも、現代では二百憶くらいの資産家です。
当時、鹿島一族は深川で工事請負業、清酒問屋、材木問屋、質商と鹿島一族が深川の経済を牛耳っており、鹿島清左衛門や鹿島清吉や鹿島清次郎の名は代々の当主がそれぞれの名を引き継いでいきました。鹿島は屋号で清左兵衛や清吉や清次郎は屋当主の名前で代々襲名されていく屋号当主の名前で、同一人物の可能性もあります。
牛谷一族は牛谷弥兵衛(1649生)が始まりで、生家近くの神社の鹿島神社の名をもらい、その子孫それぞれが商店を興す際に(屋号)鹿島を名乗り、鹿島の家に跡目が無い時には牛谷家の人間が継いでいく鹿島家の総元締めの様な家で、明治期において牛谷一族(鹿島一族)は関東で1,2を争う大財閥でした。
天狗太郎は牛谷露滴を牛谷家三代目と伝えてますが、計算上牛谷弥兵衛から三代目は1700年代の人となり時代が合いません、この説は多いに疑問です。


また、竹内棋洲の「将棋漫話」によれば、明治三年の大橋家本家認定の高段者一覧に、六段に小野五平、五段に大橋宗金、竹内伊蔵、と並び牛屋露滴の名を連ね小野五平と同門で、当時14歳にして五段を許されており、現代に生きていれば藤井 聡太と多いに争ったであろう程の天才であった事になります。
小野五平は明治5年の6月6日、深川木場の鹿島清次郎宅で宗印と香落番を指し、 その後は「小野五平会」を組織して、五平は宗印とは別行動をとるようになった。と記事にあり、鹿島清次郎は牛屋露滴の事だと思われます。
牛谷露滴は明治十一年の伊藤宗印の番付表に筆頭行事として載っており、明治12年の八代伊藤宗印十一世名人襲位記念の免状で露滴は六段を受けます。
明治20年9月武總將棋手相鑑では五段 牛谷春甫の名が現れます。おそらく露摘の後を継いだのが春甫ではと思います。
「萬朝報」明治27年(1894)の小野五平と大橋宗印の昇段問題の仲裁記事に、「取りなしを深川の豪家鹿島氏に托したり。此の鹿島氏は小野氏の高足にて立派に七段位の腕力あれば小野氏は之を大事の得意場とし鹿島氏も特別に小野氏の方正なるをひいきしたれば」と記されており、鹿島氏とは牛谷家当主を指し、当時の将棋界では、牛谷露摘や牛谷春甫は将棋界のパトロン的な存在なのです。
いずれにしても、牛谷家は当時の超大財閥一族の長であり、牛谷家当主は一生遊んで暮らせる家に生まれた裕福な御曹司だったのです。
牛谷家は将棋の駒作りを生活の糧とする駒師ではなく、暇にまかせて将棋や将棋作りを趣味とした大資産家で、アマチュア駒師の先駆者だったのでしょう。

牛谷家当主が活躍した時代、深川は掛川藩の江戸屋敷があった場所であり、金龍(二見五郎左衛門氏冶1826生まれ)も深川界隈に住み、幕末の同時代を過ごし、活躍した二人は極めて近くにありますので、仕事に知り合い、二人に共通する将棋を通じ親交があったと思われます。
文久三年(1863)金龍が金龍銘を譲り受けた年は金龍26歳です、大政奉還(1867)後に金龍は大目付に昇進し出世しますが牛谷春甫はやっと11歳で、6年後の明治六年(1873)には千葉県五反田村で金龍四十七歳の生涯を閉じた時、前記で示した生年月日は牛谷露滴なら17歳となり不自然です、前記で示した生年月日は露摘ではなく、牛谷春甫ではないかと思います。
金龍と牛屋露滴の考え得る二人の関係は、掛川藩は天領(駿府)の譜代大名(将軍家の家来)の藩であり、江戸深川は幕臣掛川藩(旗本)屋敷の拠点でした、しかも掛川藩は幕府木材の切り出し拠点でもありました、当然の事として牛谷家と金龍とは深い関係にあったろうと思います。
江戸幕府健在の時代には深川に営む牛谷家、鹿島家にとって掛川藩は深川界隈の商業許認可権を持ち、絶対服従の上司も同然な大得意先ですから、掛川藩の役人であった金龍は職権を用いて牛谷露滴を金龍宅に呼び寄せ将棋を指す事も出来たでしょう。
しかし、掛川藩は維新により、上総国柴山藩(現千葉県)に移封され、藩一族郎党の引越しに際し金龍は大目付に任じられました。
柴山藩は明治3年4月に松尾に移り、松尾藩(現千葉県)となり大目付を務め上げますが、明治6年1月頃より腹水が溜り、同年4月6日に死亡し、松尾山手に葬られますが、後年、東京駒込光源寺に改葬されました。

そして、牛谷露滴は本駒金龍の駒に似せて、駒に銀杏面取りを施したのでしょう。
私は関根記念館に蔵する牛谷作りの駒は、金龍が作った、市川米案の水無瀬写しの駒を写した書体か董斎書を写した書体の駒であろうと予想しています。
いずれにしても、本駒が金龍のアイデアで銀杏面取を施した最初の駒師であった事を証明しており、牛谷露滴はこの様な金龍の駒に憧れ、後年に模倣したものと思われ、銀杏面取りの駒は、知略家で商才に長けていた金龍だからこその斬新なアイデアだったのです。



本駒隷書体の作者
さてさて、本駒の書体銘ですが書体銘が記されていません。
しかし、多くの書物に「金龍は市川米庵の書を得意として、いつの間にか金龍銘が市川米庵の銘に置き換わった」と書されております。
処が、金龍の残した駒は極端に数が少ないのですが、その本物と思われる一組を児玉氏も所有しており、「金龍造」の銘だけで書体銘は記されておりません。
児玉氏の所有する駒は、書体も表面楷書で裏面行書で角行裏の龍馬の文字が何と「昇り龍」で、片玉の駒でしたので、真贋の判断を下せませんでした。
市川米庵は書家であり、多くの書を残しますが、児玉氏所有の駒は楷書、本駒は隷書の、共に、市川米庵の書でないかと思います。
市川米庵の書体については多くの書籍にもその存在が記されておりましたが、実際には市川米庵の書体の駒は未発見で謎であり不明でしたが、本駒がその隷書体を明らかにし、新発見書体である事から、市川米庵の隷書体であると思われます。
また、本駒に用いられてる木地をご覧ください、木目の細かい巨木の内地黄楊の柾目が通った木地で統一されており、黄楊素材としては当時としても最高級品が使用されており、黄楊の色合いも大変に良い材料です。
さらに、銘が金龍に花押となっており、高官位ある者が本人であること証する印であり、むやみに庶民が使用する事は出来ない時代であり、公式に自己の作品である事を証明しています。
勝手に他人の花押を写して用いる事は、詐欺行為と同じ行為であり花押とはそれほど格式の高いもので印影と同じなのです。
更に、江戸期において書体銘は記されていない事が多いのですが、「駒の文字は水無瀬が基本」であり、書体銘を記する必要はありません。
書体銘が記される場合には書体創作者の名前を記す事が掟ですが、自身のオリジナル書体の場合には自身銘以外は書体銘は記さないようです。
他人の書体を模倣する場合には必ず一部は変えて、書体銘も変更する事が多いようです。
他人の書体を模写する場合には「○○形」と形式として明記したようです。
他人の字母紙をそのまま使う事は御法度で駒職人の掟だったようです。


市川米庵の長子である市川萬庵は江戸期には与力鉄砲方として幕府に仕え、神田練塀町に住み金龍とは交友もあったようです。
市川萬庵は、維新後、大蔵省に務め明治 3年 ( 1870 ) に最初の日本紙幣の文字を書いた書家として知られます。
以降、日本の紙幣や硬貨の文字は全て隷書体を使用するのが例となって、最も格式の高い文字として現在も用いられています。
金龍の三男、貴知郎が大蔵省で活躍し正三位勲二等を授けられたのも、そんな二人の関係があったからこそではないでしょうか。
金龍は市川萬庵を通じて市川米庵の書体を得意としていたと思われ、市川米庵の書体も市川萬庵を通じて数種類のバリエーションがあるのではと推測されます。
私は金龍の駒に市川米庵の書体である奥野錦旗の元となった書体も存在する、と予見しております。
それは、表面を市川米庵の楷書で裏面を草書で書いた書体の駒、即ち奥野錦旗の書体です。
奥野錦旗の角行の下り龍は昇り龍が突然落下した様に不自然です。
現在、K氏が金龍造の駒を所有しています、しかし氏所有の駒は楷書ではあるものの、「片玉」でもあり大橋家の作法に反しており、角裏の龍馬の龍が昇り龍です、おそらく水無瀬の駒を市川米庵の楷書体で、一部の草書体のを市川米庵書体に直した、未完成の書体に感じます。

佐藤公太郎氏は棋洲家から金龍造の駒を譲り受け、現在も蔵しています。
氏所蔵の金龍造の駒は、表面を楷書、裏面は草書で作られており、裏の龍馬は下り龍で突然に龍が下り、双玉であり、片方の玉将だけに金龍銘とあります。
水無瀬風安清の書体を市川米庵の階書書体に直したであろう書体です。
又、明らかに竹内棋洲が棋洲書として参考とした駒文字であろうと直感的に感じるものです。(全く同じ書体ではありませんが特徴が似ています)

さらに、おそらく、酒田の棋洲家には、もう一種類の市川米庵の水無瀬風の書体の駒が存在していただろうと思います。
それは、おそらく水無瀬風と清安(源兵衛清安)の書体を市川米庵風に直した書体の二種類の金龍書が存在しただろうと云う事です。
佐藤公太郎氏は、「昭和の初め頃、東京で「錦旗」の駒が売り出され、その駒は金龍形に似ている」、と証言しています。
東京の「錦旗」の駒とは奥野錦旗の駒に他にありません。奥野錦旗の書体を金龍形と認識していたのです。
しかし、佐藤公太郎氏は後年、棋洲家から金龍造の駒を譲り受け、その駒を見た時、関根名人に渡した「錦旗の駒」はこの「金龍造」の写し駒ではないかと、実は一生涯疑っていたのです。

酒田や天童では金龍書とは、初代大竹竹風も写し残し、現在に残る天童の上彫楷書体に他にはありません、天童の上彫楷書体は伝統の金龍書体を今に伝える書体であると思います。
ですから、現在に残る駒書体の中で奥野錦旗が密かに、もう一種類の市川米庵と市川萬庵の合作水無瀬書体(源兵衛清安書体)を伝えていると、私は確信しています。
いつの日にか必ず金龍が作った奥野錦旗書体の駒に出会えると私は信じ、蒐集できる日を楽しみにしています。


現在、私の知る限り金龍の駒は、法眼董斎、楷書の未完の市川米庵、市川米庵の水無瀬風写しの書体、そして本駒の隷書体の市川米庵の書、の四組四種類だけです。
また、銀杏面取を施した駒も、・関根名人記念館が所蔵する牛谷造の駒と本駒の二組だけです。
市川米庵の隷書体の駒は本駒の一組しか残っておらず近代駒作りの歴史を物語る生き証人の駒であり、本駒の存在自体が駒歴史の上からも大変に貴重な駒であります。
又、法眼董斎書だけでなく明治期に主流であった董斎書や董仙書の基本型も金龍によって駒にされたのではないかとも思っています。

この様な金龍(二見氏治)の残した駒は、近代駒が華開く原点の駒でもあり、金龍こと二見氏治こそが近代駒の元祖なのです。



江戸期から明治期の同書体駒

上記の駒は同時代に製作された駒かと思います。
実は、この隷書体の駒は、現在にも数点残されており、明治期には多数模倣されていたようで、ほとんどが無銘の駒です、本作は作者銘及び書体銘が残されております。
江戸末期には、玄龍と云う名の駒師の事については研究不足で判明しておりませんが、玄龍とは佐々木玄龍の事ではないかと思われます。
佐々木玄龍は1650〜1723頃の江戸初期の書家で 名を玄龍、字は煥甫、通称は萬治郎、池庵と号する人で、江戸初期から中期の書家です。
本駒は彫ってから盛り上げた駒ですので、江戸後期以降の作品と思われ、時代的には佐々木玄龍本人が作成した駒だとは思われません。
西獄書とは紀元165年漢の頃の中国崋山に在った碑、今は失われてしまった西獄崋山廟碑の拓本が明時代以前に残され、その拓本が隷書の手本とされ、隷書を学ぶ者の教科書みたいな物でした、佐々木玄龍は、孟魯軒という清国人の書を蔵しそれを学んだとされて、西獄碑に用いた独特な筆法を学びます。
市川米庵も隷書を得意としており、西獄碑に用いた独特な筆法を用いて駒文字を書いたのでしょう。
この駒は金龍の書体筆法表現とは異なり駒字母も異なりますので、この駒も金龍の駒書体を模倣し、市川米庵の書ではなく西獄崋山廟碑の書体であると主張した金龍の市川米庵書の模倣駒と思われます。



市川米庵
掛川藩世子の侍講も務めた市河寛斎(1749-1820)の子。名は安永8年(1779年)、己亥九月亥の日(9月16日)の亥の刻に江戸日本橋桶町に生まれたので三亥と名付けられた。
字は孔陽、通称は小左衛門。号は米庵・亦顛・楽斎・百筆斎・金洞山人・小山林堂・金羽山人。
寛政7年頃、林述斎の門に入り、柴野栗山に学び、寛政11年、書塾小山林堂を開いた。文化8年、富山藩に仕え、後に加賀藩に仕えた。
書の門人は5,000人、諸侯の門人も200人を越え、巻菱湖・貫名海屋とともに幕末三筆と称された。
市川米庵は、隷書・楷書を得意とし、寛政11年(1799年)、20歳の時に書塾 小山林堂を開いた。
その後、和泉橋藤堂候西門前に大きな屋敷を構え、尾張徳川、筑前黒田、津藤堂、徳山毛利、鯖江間部などの大名にも指南を行った。
1858年没し、享年80。西日暮里本行寺に墓がある。

市川萬庵
市河萬庵は1838年生まれ、市河米庵六十歳の時の長子で名は三兼、字は叔並、号を萬庵と称し、幕府に仕え高島秋帆に砲術を学び鉄砲方となる、父の後を継いで篆書・隷書を得意とし長野県佐久市の佐久ホテル(1428年の室町時代創業の信州最古の老舗)に篆刻碑を残し、弾琴・点茶も良くした、維新後は大蔵省に勤め明治三年にロンドンで新製した日本の紙幣の文字を書いた書家で、以来日本国の紙幣は隷書が用いられ、日本国紙幣の元祖である。